みなと横濱牛鍋処~第16回すきや連②
第16回「すきや連」を開催しました。
今回の会場は明治28年ご創業の、みなと横濱牛鍋処「荒井屋」さん。今回も50人以上のすき焼き関係者が集結して大盛況でした。
その時に参加者の皆さんに書いていただいた寄せ書きは、昨日の弊ブログに載せましたが、その中に、
「文明開化には私たち業界の御苦労があった・・・とても勉強になる卓話でした。」
というのがありましたね。今日は、その卓話の内容をご紹介しましょう。さて、
<卓話のテーマは>
「幕末期の横浜居留地の外国人と牛肉―苦労した肉牛の仕入れと屠牛場の設置―」
<講師の先生は>小林照夫先生
関東学院大学名誉教授、日本大学大学院商学研究科非常勤講師、社会学博士
<内容は↓>
「外国人居留地の開設後、牛肉を食べる文化習慣がなかった日本人(横浜人)は、色々と戸惑いを覚えた。特に屠牛後の骨等の廃棄が居留地の環境の悪化にもつながり、当時の社会問題にもなった。そんな当初の横浜の状況を踏まえながら、日本人にも牛肉が食されるようになった背景を語ります。」
この卓話の中で、私が初耳でしたのは、「生麦事件」と肉の関係のことです。
風が吹くと桶屋が儲かるように、「生麦事件」で薩摩藩士がイギリス人居留民を殺した結果、横浜の食肉産業が急速に発展したのです。
へええ!でしょう。
「生麦事件」についての詳細は、皆さんに自分で調べていただくことにして割愛しますが、とにかく、1862年(=文久2年)に起きた、この事件の結果、イギリス軍と日本は緊張状態に入り、居留地防衛のために多数の兵士が横浜へ入って来たのです。
兵数はフランス軍も加わって2.300人、12年間横浜に駐屯したそうです。
現在「港の見える丘公園」という名前でデートの名所になっている辺りが駐屯地で、当時は「トワンテ山」と呼ばれたそうです。イギリス軍第20連隊(トウェンティー)がなまって「トワンテ」に成ったわけです。
「生麦事件」の後も、長州藩と4か国連合艦隊の砲撃戦など外国との紛争が続いた結果、兵数は増強され、港に浮かぶ軍艦の乗組員を入れると、約8.000人もの外国軍隊が横浜に集結していたそうです。そう、当時横浜は一大軍事拠点と化していたのです。
さて、これから桶屋が儲かります。
この駐屯軍が地域にもたらした経済効果が大きかったのです。
軍は、肉・野菜・小麦粉・茶・砂糖・炭・油・酒類などの食料日用品を調達し、兵舎での寝具類の洗濯・繕いといった仕事を公募しました。入札に参加したのは外国人商人でしたが、実際には地元の日本人が、その下請けをしたことも多かったようです。
さて、ここで皆さんは軍需物資の筆頭に「肉」が挙げられていることに気づきましたね。
横浜の食肉産業が一気に発展した理由がこれです。
明治維新後、この駐屯軍について日本政府は、独立国である日本に他国の軍隊が存在することは国際法上問題だとして交渉を続け、1875年に完全撤退となりましたが、地元民は収入源を失うので撤退を大変惜しんだそうです。
いやいや、勉強になりました。
勿論その後は、歴史を噛みしめつつの牛鍋大宴会。
加えて、女将さんは美女。幸せな一夜でした。
追伸①
NHK総合テレビ『月刊やさい通信』に出演します。
※なぜ、すき焼きにシュンギクを入れるのか?
※すき焼におけるシュンギクの役割
という内容です。是非ご覧ください。
11月24日(日)朝6:15~6:45
11月28日(木)昼12:20~12:43(短縮版)
追伸②
「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。
この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。
その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。
現在の笑顔数は373人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。
皆様も、是非御参加下さい!
本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.358日連続更新を達成しました。
毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。
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