読書感想文

コピペー全盛の社会に成ってしまいました。

最先端の研究をなさっている方ですらコピペーなさるのだから、学生がマネするのは当然のことです。

私は、このブログへのアクセス状況を毎日懐石していますが、イヤ、解析していますが、そこでコピペーの気配を感じました。

そのアクセス解析では「検索文字列の解析」ということも出来ます。どんなキーワードを検索して、私のブログに入って来たのか分かるのです。

それを私は毎日観ていますが、ある日、

「肥前の妖怪 読書感想文」

と検索して入って来た人が何人もいることに気づきました。

???

どうやら、どこかの学校が司馬遼太郎の小説『肥前の妖怪』の読書感想文を書くよう、宿題を出したようなのです。

私が、幕末の佐賀藩主・鍋島閑叟を題材にした、この短編の感想文を弊ブログの1/23号に書いていたので、学生さん達が見つけたようで、試しに「肥前の妖怪 読書感想文」とグーグルに入れてみると、その号が一位に表示されます。それで入った来たのです。

でも、そのまんまコピペーするとマズい箇所もありますよ。

私は、その文の中で、肥前佐賀藩と彰義隊の戦いについて、こう書いています・・・

「この戦いについて、私たちのような江戸の人間は彰義隊側から視ることがほとんどです。例えば上野近辺の老舗さん、例えば「羽二重団子」さんには彰義隊ゆかりの遺品があります。上野から敗走する隊士が店に乱入、刀や槍を縁の下に隠し、百姓の野良着に変装して北へ落ちのびた、と聞きます。」

「浅草は上野にごく近く、私個人も「羽二重」の御主人SW田さんと面識があったりしますから、どうしても、この戦いのことは彰義隊側から視ますが、今回『肥前の妖怪』を読んで、新政府方の視点を持つことが出来ました。」

宿題を出した学校が、ウチの近辺なら良いんですけどね、佐賀県だとすると全く逆の立場です。

マズいですよね。

ああ、先生、本来そのレポートにはDをつけるところでしょうが、そこを曲げて、Cくらいにしておきませんか。

すき焼きおごりますから。

 

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.718日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

Filed under: ぼやき部屋,憧れの明治時代 — F.Sumiyoshi 12:00 AM  Comments (0)

ハロウィンじゃないか!

ハロウィンで仮装するのは子供じゃなかったんですかね?!

ハロウィンとは、子どもたちが魔女やお化けに仮装して近くの家々を訪れてお菓子をもらったりする風習のことだと思っていました。

もちろん、どの国にも原点を忘れがちな人はいるもので、アメリカなどでは大人の仮装呑み会に成ってしまっていることは、私も知ってます。

しかしですよ、今年の日本の「ハロウィン」みたいに、公共の路上で馬鹿騒ぎはしないと思いますよ。

10/31の夜、渋谷には多数の仮装者が集まったため混乱状態となり、警察は機動隊まで出動させて、総勢200人体制で警戒に当たったそうです。

それでも逮捕者が2名出たり、多くのゴミが捨てられていったりと、実に嘆かわしい事態だったと聞きます。

そもそも、あの状態って、「ハロウィン」なんでしょうか?

ワールドカップの時も思いましたが、渋谷の騒ぎって、本気でハロウィンを祝ったり、サッカーを応援したりはしてませんよね。

あの騒ぎ、私には「ええじゃないか!」にしか見えません。

そう、江戸時代末期の慶応3年(1867年)8月から12月にかけて、近畿、東海地方などで発生した騒動のことです。

当時まず「天から神符が降ってくる。これは慶事の前触れだ」という噂が広まり、それに反応した民衆が仮装するなどした上、「ええじゃないか!」を連呼しながら町々を巡って、熱狂的に踊り狂ったそうです。

この騒ぎは8月下旬に始まり、12月9日王政復古発令の日にはピタリと止んだそうです。

それで、この「御札降り」は討幕派の謀略だったのではないかと疑った人もいたそうです。(福地源一郎の懐往事談の記述)

そう言われてみれば、渋谷の「ハロウィンじゃないか!」も、日本国を停滞したままにしておきたい国際金融資本の謀略のような気が・・・

しない・・か・流石に。

謀略はともあれ、盛り上がりや騒ぎやは、何かにかこつけるのではなく、自分で興して欲しいよね、と私は思います。バブル時代みたいに。

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.711日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

Filed under: ぼやき部屋,憧れの明治時代 — F.Sumiyoshi 12:00 AM  Comments (0)

役名

良く考えましたねえ。苦労なさったんでしょうね、NHKさん。

ひょっとして、この役名造りが、今回のドラマ製作で一番苦労なさったポイントだったんじゃないですか?お察し申します。

最高に笑ったのは鴨居社長です。鳥を鴨に変えただけじゃないですか!でも鶴でも鷺でもなくて間違いなく鴨がなく最高です。感心しました。

あ、今話しているのは朝ドラ「マッサン」の登場人物のことです。

ニッカ・ウイスキーの創業者でマッサンこと竹鶴政孝は亀山政春に、

スコットランド人妻のリタはエリーに成っています。

竹鶴が最初に勤務した洋酒メーカー・摂津酒造は住吉酒造に成りました。

住吉酒造がドラマに登場した時私は画面に向かって、グッドジョブ!と叫んでしまいましたが、その後にさらに笑える鳥井社長いや鴨居社長が登場したのです。

竹鶴はやがて摂津酒造から鳥井の率いるサントリーいや鴨居商店に引き抜かれるわけですが、ここに出てくる会社のほとんどが現存してますからねえ、私のことを浅草のすき焼き店主住吉史彦さん(48歳)としか紹介しないNHKさんとしては、さぞ苦心なさったことでしょう。

実在の会社名とかぶってもいけませんしね。

お疲れ様でした。今後も楽しみに拝視聴致します。

ちなみに住吉酒造の、その後が気になったので検索してみましたが、宝酒造に吸収されたようでした。

うーん、残念。

やっぱり「太陽ワイン」とか紛い物商売は長続きしませんな。

今後の焦点は成り上がり者の鳥井に、竹鶴が目指す本物のウイスキーが果たして理解出来るのか?ですね。気になります。しっかり描いていただきたいです。

なお、実在の竹鶴の実家である、広島県竹原市の竹鶴酒造は現存していて、先日国際観光日本レストラン協会の会合が広島で開催された際に、その「竹鶴」を飲むことができました。

我々は日本酒の名前が「竹鶴」だと、なんだか変な感じですが、広島の方々は、ウイスキーの名前が「竹鶴」である方が、余程違和感があるのだそうな。

それは、広島の人が正しいですな。

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.693日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

Filed under: 憧れの明治時代,色んな食べ物 — F.Sumiyoshi 12:00 AM  Comments (0)

社員旅行

郡山市のすき焼き店「京香」の皆さんが、社員旅行で見えました。

「京香」さんは、明治17年(1884年)のご創業、福島県で初の牛鍋店だったそうです。

今でこそ郡山は福島県第一位の都市ですが、当時はそうではなく、会津若松や福島の方がずっと都会でした。

郡山は、と申しますと、原野に安積疏水を通す工事中。

明治維新後、各地で不平士族の反乱が起きたため、士族に仕事を与える国家プロジェクト「士族授産」を行う必要が生じ、その場所として安積原野が注目を浴びた、ということのようです。

そんな所に牛鍋屋が出来たのです。原野の店が牛鍋屋としては会津や福島に先行したところが歴史の面白いところですね。

要するに、会津や福島と違って郡山は明治っぽい土地柄だったと言って良いでしょう。

やがて、この疎水の水を利用して水力発電が始められ、産業が集積して、郡山は発展していきました。

そんなワイルドな土地ですから、当時は肉を調達することが難しく、「京香」さんの御先祖は、牛の屠畜も自ら行っていたそうですが、今はすき焼き店だけが残っています。

似たような歴史を持つ御店としては、新発田市の「八木」さんがあります。

新発田が明治以降発展した理由は、陸軍の拠点が置かれたからで、そうして発展する都市で、やはり牛の屠畜から牛鍋店までを経営なさっていたのが、「八木」さんの御先祖です。

もっとも建物の感じは違います。

「八木」さんは昭和レトロな建物を使い続けておいですが、「京香」さんは新しく立派な建物。東日本大震災の時も、被害はさほど大ききなかったということで、不幸中の幸いでした。

震災の影響で、郡山市唯一の料亭が廃業してしまったので、立派な「京香」さんは、すき焼き屋でありながら都市を代表する御店の位置に在ります。結構なことです。

さて、その社員さん達の為に、なんか話しをして欲しい、と五代目の御主人から所望されました。

さあ、どうしますかね。

歴史のことなんかは、自分で調べればいくらでも調べられますよね。

え、「ちんや」の歴史ですか?

ウチなんてのは、いい加減なもので、御店の方が立派じゃないですか。ウチの場合は、狆の商いが難しくなったから、とりあえず食べ物でもやるかって感じです。郡山に肉食文化を導入した御店の方が立派ですよ。

だから、そういうことよりも、やはり心の持ちようの話しが良いですよね。

そう、愚痴が入りますが、日本の普通の消費者は肉について今も乏しい知識しかお持ちではありません。テレビやデパートがおかしなブランドや、おかしな食べ方を推奨していたりします。

表面的には、実際そういう状態ですが、売り手がそれに同調してはいけません。

お客様は、必ず味をお分かりになります。

子供の頃から60年。自分がお爺さんになるまで食べ続けていただけば、良い肉は良いと分かる。そう信じないといけません。

何が良い肉って、それは話すと長いので、あとでこのブログの9/11号を読んでいただきたいのですが、とにかく、

下町の、旧くからのお客様にお世話になって来た弊店と、それから、

安積原野に店を開いた方の後継者は、是非そう信じて欲しい、それだけ申し上げて、私の話しと致しました。

お後がよろしいようで。

 

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.681日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

Filed under: すき焼きフル・トーク,憧れの明治時代 — F.Sumiyoshi 12:00 AM  Comments (0)

幻の楽器

ヴィオラ・アルタ奏者の平野真敏さんのコンサートがあったので、聞いてきました。

平野さんと私は「台東区アートアドバイザー」として一緒に活動させていただいているので旧知なのですが、実は平野さんは世界中でも大変数少ない、ヴィオラ・アルタの独奏者なのです。

19世紀後半から第二次大戦までドイツ語圏で使われていて、今は廃れてしまった、特殊なヴィオラの演奏家です。

え? 「特殊なヴィオラ」以前にヴィオラの説明をしろよ って?

ああ、そうでした。ここは食べ物ブログでしたからねえ。イキナリ「特殊なヴィオラ」じゃ不親切ですな。失礼しました。

ええーっと、ヴィオラはヴァイオリンより5度低く、チェロより1オクターヴ高い音を出す楽器―つまりヴァイオリンとチェロの中間の楽器です。パッと見は、ほとんどヴァイオリンと変わりませんが、並べてみると、少し大きいです。

で、ここで重要なのが「少し大きい」の「少し」の度合いなのです。

音響的には大きいサイズの方が良く響くのですが、大きすぎると演奏が困難になるため、演奏者は自分の体格との兼ね合いで楽器を選ぶわけです。

そんなヴィオラの中でも、ヴィオラ・アルタは特に大きいのです。通常のヴィオラより6cm程長いとか。

大きいのに顎にはさんで演奏するので、当然演奏しにくく、

「当オーケストラではヴィオラ・アルタの採用をしていません。その楽器は体を害する恐れがあります」と表明しているオーケストラすら在るそうです。

そのヴィオラ・アルタが19世紀後半から第二次大戦までは、ドイツ語圏で盛んに使われていました。

使われたのは、かのリヒャルト・ワーグナーが愛したからです。

ワーグナーは普通のヴィオラの、鼻にかかったような音・渋めの音をかねて気にいっておらず、透明感のある音を望んでいました。その方が人間の声や管楽器の音と融け合うからですね。

実際、平野さんがヴィオラ・アルタで、滝廉太郎の歌曲などをひくのを聴いていると、本当に人間が歌っているように聞こえることがあります。

そういうヴィオラ=ヴィオラ・アルタを、やはりドイツのヘルマン・リッター教授(1849‐1926)が開発したので、ワーグナーは早速採用し、それでドイツ語圏で使われるようになったそうです。

しかし、後に結局、使われなくなりました。

演奏しにくいことは勿論、ナチスがワーグナーの音楽を盛んに利用したことも、戦後この楽器にとっては不利に作用したようです。

さてさて、この楽器に平野さんは、行きつけの渋谷の楽器店で偶然出会いました。

当時店の人も良く分かっておらず、ヴィオラより大きくて、チェロより小さい、ドイツの「なんとか博士」が作った「ヴィオラ・なんとか」と説明されたそうです。

この日から、酔狂な平野さんの、ヴィオラ・アルタを探る旅が始まります。

当初は遅々として進まない調査だったそうですが、オーストリアの、世界でただ一人の、この楽器の独奏者と知り合ったことで大きく前進したそうです。

で、平野さんが二人めの奏者に。

その調査の顛末を描いた御本『幻の楽器 ヴィオラ・アルタ物語』が昨年集英社新書より刊行され、今回のコンサートは、それを記念したものでした。

誠におめでとうございました。

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.679日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

 

 

Filed under: 憧れの明治時代 — F.Sumiyoshi 12:00 AM

顔がいのち②

「人形は顔がいのち」の「吉德」さんの、新本社屋が完成し、お披露目会がありましたので、出かけてまいりました。

建物のことや、「吉德これくしょん」の展示室のことは、おとといの弊ブログに書きましたので、そちらをご覧いただきたいのですが、今日の話しは施工者さんのことです。

この日、「これくしょん」の他にもう1点印象的だったのは、お披露目会での施工者代表=清水建設さんのスピーチでした。副社長さんが登壇して、

「吉德」さんとのおつきあいは、むしろこれからで、この建物の寿命が尽きるまで面倒をみさせていただきます!と宣言しておられました。

うーむ。

そう言えば、清水さんはスーパーゼネコン5社の一角ですが、老舗でもありました。

富山出身の大工・初代清水喜助が日光東照宮の修理に参加した後、江戸に出て、1804年(文化元年)に創業したのでした。

二代目喜助の頃、幕府から「築地ホテル館」を受注(竣工は1868年(明治元年))、

続いて「第一国立銀行」を1872年(明治5年)に竣工させ、この建物は東京の新名所として人々に親しまれました。

「第一国立銀行」は外国人技師の指導によらず、設計施工すべてを二代目喜助が手掛けたそうで、つまり完全に日本人によって造られた最初の西洋館が、この建物です。

名所だったので、当時の多くの錦絵にもその姿を残しており、「ちんや」の所蔵版画にも、「築地ホテル館」「第一国立銀行」を描いたものが在ります。(アンダーラインの箇所をクリックで画像が見られます)

さて、話しを戻しまして、現代の施工者さんです。

建物の寿命が尽きるまで面倒をみる、とは見上げた姿勢です。

建てた建物に自信がなければ、そういう発言はできないわけで、仕事の質に自負がおありなのでしょう。結構なことです。

弊社も、建物の施工者・戸田建設さんの関連会社・戸田ビルパートナーズさんに、今でもお世話になっていますから、まずは安心ですが、1975年竣工と旧くなってきましたので、最近は結構維持するに苦心があります。

施工者とつきあい続けるという日本的方式は、コストの面では最安ではないかもしれませんが、コストだけが価値ではないと、この日のお披露目会が教えてくれました。

新「吉德」ビルの一般公開は、9月15日(月) 9:30からです。

追伸、

誠に勝手ながら、「ちんや」は9/1(月)~9/4(木)まで4連休をさせていただきます。ご諒承下さいませ。

このブログは予約投稿により、休まず更新して参ります。

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.646日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

Filed under: 憧れの明治時代,浅草インサイダー情報 — F.Sumiyoshi 12:00 AM  Comments (0)

鯨脂

<食育企画>おいしい夏休みを体験しよう!―「親子体験食味学習会」を開催しました。

お子さんに自分で肉をカットしてもらい(=精肉体験)、その肉を自分ですき焼きにして食べてもらいました。

そうしましたら、カットの場面で参加者の中の可愛いお嬢さんが、しきりと牛脂に興味を持ち、鯨の脂と比較して、ああだこうだと話していました。

このお嬢さん、小学校1年生と未だ小さいので、授業第一部=「ちんや六代目住吉史彦が語る、すき焼きの歴史」では、どうも話しが見えなかったらしく、むずがっていましたが、第二部の精肉体験に入ると俄然元気が出てきて、

冷蔵庫に入ってみたい!

脂に触ってみたい!

と積極的です。そして牛脂に触ってみた結果のコメントして、鯨脂との比較論が飛び出したのです。

何を隠そう、このお嬢さんは鯨を扱う料理屋さんの娘さんです。

小1なのに恐るべし、文明開化は分からなくても、脂の違いが分かるのです。子供の感覚って大したもんだなあ、と思う一方私は、鯨が関わった、幕末日本の歴史に想いを至しておりました。

そうだ、忘れてた、ペリーが日本に来た理由は鯨だった!

話しはここで、しばしペリー来航当時に飛びます。ウイキをコピペしますと・・・

「産業革命によってアメリカ国内の工場やオフィスは夜遅くまで稼動するようになり、その潤滑油やランプの灯火として、主にマッコウクジラの鯨油が使用されていた。この需要を満たすため、欧米の国々は日本沿岸を含み世界中の海で、捕鯨を盛んに行なっていた。」

「当時の捕鯨船は船上で鯨油の抽出を行ってたため、大量の薪・水が必要であり、長期航海用の食料も含め、太平洋での補給拠点が求められていたが、アメリカも例外ではなかった。」

これです、これです、鯨が必要だったので、アメリカは日本と国交を結ぼうとしたのです。

日本近海に鯨がいなければ、ペリーが日本に来ることもなく、日本の文明開化もなかったか、だいぶ遅れていたかもしれません。鯨がいなければ、日本人は今すき焼きなんぞ、食べていないかもしれませんね。

あのお嬢さんが鯨の話しをし出すまで、すっかり忘れていました。迂闊でした。

ついでに申しますと、この時日本の将軍家はペリーに狆(ちん)を贈っています。

ペリー=鯨=牛=狆=ちんや

なんか、面白い位に繋がっていますね。

私にとっても、おいしい夏休みでした。

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.640日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

 

 

Filed under: 憧れの明治時代,食育ナウ — F.Sumiyoshi 12:00 AM  Comments (0)

いろは大王②

昨日の話しの続きです。

「いろは大王」こと木村荘平の生涯を、生地・京都府宇治田原町の郷土史研究家が冊子にまとめた、というニュースをFBにUPしましたら、

京都の知人から

「博善社の創業者って京都出身だったのか。」

というコメントが入りました。

この知人は京都人なのに明治時代にお詳しい、という奇特な方で、荘平が京都人で明治人なだけに、余計に興味をそそったようでした。

さて博善社についても説明しておかないといけませんね。

このブログでは荘平については、牛鍋チェーン「いろは」のオーナーとしか説明して来ませんでしたが、荘平は「大王」の文字通り、手広く事業をやっていました。その一つが、ここに書かれている東京博善社です。

荘平は牛鍋屋を展開する傍ら、日暮里村の火葬場運営を請け負う東京博善会社を設立。理事を経て社長となりました。

今でも、浅草辺りの人が死にますと、たいてい東京博善・町屋斎場の世話になります。とても身近な存在ですね。

政界にも進出して、政友会の星亨の派閥に属し、東京市会議員・東京府会議員も務めました。

今あらためて、荘平の生涯をながめてみますと、つくづく明治人の一生だなあ、と感じます。

そもそも京都人・荘平が東京に進出できたのは、薩摩出身の警視総監・川路利良の招きを受けたからです。明治政府から官営屠殺場の払い下げを受けて成功、そこから牛鍋チェーンに展開していったのです。

その薩摩藩のコネを獲得したキッカケは、生地の近くで起きた、鳥羽・伏見の戦いでした。この戦いで薩摩藩の御用をつとめたからです。

今日の倫理観で見れば、荘平はコネと戦争を利用して成りあがった政商にしか見えないかもしれません。

それに、多数の愛人・妾がいて、東京市内20箇所にのぼる「いろは」の支店に、その愛人をそれぞれ配置して経営に当たらせた、なんて面白過ぎです・・・

おっと、そんなことを申しますと、都議会のアヤカ先生に叱られそうですので、ただ今の発言は、たしかに私の発言であったことを率直に認めて謝罪会見致します・・・

ともあれ、そういうタイプの人間が時代を活気づかせていたわけのも事実なわけで、そこが歴史の面白い所です。

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.595日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

Filed under: すき焼きフル・トーク,憧れの明治時代 — F.Sumiyoshi 12:00 AM  Comments (0)

いろは大王

木村荘平の生涯をまとめた冊子が出来たそうです。

木村荘平(しょうへい)(天保12年~明治39年)は、明治時代、牛鍋ブームに目を付け、東京で牛鍋チェーン「いろは」を展開した実業家です。「いろは」を当時最大の飲食チェーンに成長させて、「いろは大王」の異名をとった人物です。

弊ブログの2013年6月4号にも書きましたが、多数の愛人・妾がいて、東京市内20箇所にのぼる支店に、その愛人を女将として配置して⇒経営にあたらせたことが有名です。

戦前「ちんや」の真向かい、今「松喜」さんが在る所にも「いろは」の第十支店が在りました。

「大王」の生地は京都府宇治田原町。

私は行ったことがありませんが、地図で見ますると宇治市の奥。陶器の里・信楽へと山を登っていく途中の町のようです。

その町の郷土史研究家・茨木輝樹さんが、今回の冊子を製作したそうです。

茨城県にいる子孫を訪ねたり文献を参考にしたりしながら、2年かけて冊子にまとめたそうです。

そのことを伝える報道で連絡先は著者本人となっていて、電話番号が掲載されていたので電話してみますと、御本人が出てこられました。(まあ、当たり前ですが)

昔のすき焼きのことを知りたいので、御本をお売りいただきたいと申し出ますと、いくらで売るのか、未だ決めていなかった御様子。

結局、この本で儲ける気は毛頭ないらしく、安く譲っていただくことになり、恐縮なことでした。

御本が届くのが楽しみです。

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.594日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

Filed under: すき焼きフル・トーク,憧れの明治時代 — F.Sumiyoshi 12:00 AM  Comments (0)

サラエボ事件

サラエボを訪問していたオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻が銃撃・暗殺されるという事件が起きたのは、1914年6月のことでした。

これが第一次世界大戦のキッカケです。

この戦争は長期化して、各国は国家総力戦を強いられることとなり、それまでの人類の常識をはるかに超える人的損失・経済的損失がもたらされました。

それから百年。

この戦争の犠牲者を追悼するため、EU加盟国の首脳らは今月、かつての激戦地に集まって追悼式典を開催したそうです。

で、この戦争と「ちんや」が実は関係あるんです。

へええ?!でしょう。

御説明しますね。

この戦争中、浅草本願寺が俘虜収容所として使われました。

日本は連合国側に立って参戦、ドイツ軍の極東における根拠地チンタオを攻略しました。その結果、約4700人のドイツ兵が戦争俘虜となったのです。

俘虜たちは船で日本に輸送され、全国各地の収容所に振り分けられたのですが、そんな中、東京の収容所としては浅草本願寺が使用されたのです。

この時日本側はドイツ兵を手厚く待遇したようで、ベートーベンの「第九」を日本で初演したのが、俘虜兵であったことは有名な話しですね。

第九初演の場所は残念ながら浅草ではなく徳島県の収容所でしたが、浅草でも兵たちが合唱団を結成していたようです。また収容所当局は、兵の栄養状態に気を遣ったらしく、旨い肉を調達しようと努めました。

その肉を提供したのが、浅草広小路の「ちんや」だった、という次第です。

この収入が弊社の社業を発展させたことは申すまでもありません。

風が吹けば・・・みたいな話しですが、ドイツの方角には足を向けて眠れません。

Freude, schöner Götterfunken, Tochter aus Elysium

Wir betreten feuertrunken. Himmlische, dein Heiligtum!

 

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.582日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

Filed under: すき焼きフル・トーク,憧れの明治時代 — F.Sumiyoshi 12:00 AM  Comments (0)