黒崎検査官

「新春浅草歌舞伎2014」の製作発表記者会見が行われたようです。

浅草歌舞伎は、正月の浅草の恒例行事で、チケットのお値段が歌舞伎座よりお安いこともあって、若い歌舞伎ファンが毎年大勢観に来て下さいます。

会場の浅草公会堂が「ちんや」に近いので、見物後にすき焼きを食べに来て下さる方も多く、実に有り難い興業です。

さて今年の話題は、なんと言っても、金融庁検査局の黒崎検査官。イヤ、黒崎を演じた片岡愛之助さんが登場することです。

最近は町中でも、黒崎さん!と声をかけられることが多く、CMオファーも、おネエの役で来ることが多いとか。

愛之助さんは、実はこれまで浅草歌舞伎に何度も出て下さっていて、役はずっと二枚目でしたから、浅草のファンは完全にそう認識していて、おネエ役には大変驚いたものでした。

勿論、今回も立ち方での出演です。

襲名披露で浅草をお休みされていた市川猿之助さんも復帰です。亀治郎時代から浅草常連でしたから、嬉しいですね。

新年2日が初日で、千秋楽は26日。

今年も筋書きに協賛広告を出すつもりですので、お越しの節は広告欄も見て下さいね。

追伸①

NHK総合テレビ『月刊やさい通信』に出演します。

※なぜ、すき焼きにシュンギクを入れるのか?

※すき焼におけるシュンギクの役割

という内容です。是非ご覧ください。

11月28日(木)昼12:20~12:43(再放送、短縮版)

http://www4.nhk.or.jp/P554/

 追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は373人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.362日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 
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福を掻きこむ

11月の「酉の市」と言えば、縁起物の「飾り熊手」を買い、商売繁盛を祈願するのが習わしです。

今年は、酉の日が「文化の日」と重なってしまいましたので、店の営業が忙しく、深夜23時を過ぎてから「酉の市」に参りましたが、思いの外、その時間でも人が残っていて、関係者の方に聞いたところでは、大盛況だったようです。良かったです。

さてウチが熊手を買いましたのは、松下商店さん。

ご子息がウチの父と同門で、「駒形どぜう」さんとも親しく、また「台東区手づくり工房マップ」に弊店と一緒に参加しています。

熊手の工房は、かつて台東区内に何軒もあったのですが、移転してしまった所が多いようで、松下さんは区内に残っている、数少ない工房です。

「台東区手づくり工房マップ」に参加して、お子さんの見学などを受け入れ、伝統の技術を、この地域に残そうと頑張っておられます。

中でも、熊手に扇子を付けた「桧扇(ひおうぎ)」のタイプは、松下さんのみ。意匠登録されています。(第696158号)

鷲神社の宮司様からも、この形で造ることを認められているとか。

このタイプをいただいて来ました。

福を掻きこんで貰いたいですね。

なお、今年の「酉の市」は、この後まだ2回開催されます。

「一の酉」は「文化の日」11/3で終わってしまいましたが、

「二の酉」は11/15(金)、

「三の酉」は11/27(水)、鷲神社の境内で開催されます。是非お出かけを!

追伸①

NHK総合テレビ『月刊やさい通信』に出演します。

※なぜ、すき焼きにシュンギクを入れるのか?

※すき焼におけるシュンギクの役割

という内容です。是非ご覧ください。

11月24日(日)朝6:15~6:45

11月28日(木)昼12:20~12:43(短縮版)

http://www4.nhk.or.jp/P554/

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は370人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.351日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 
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改修工事

雷門に改修工事が入っています。

ご観光に見えた方が、

ああっ、なんだよ、工事中かよお! ついてないなあ!

と言っておいでなのが聞こえてきますが、逆ですよ、逆。

普通の雷門は、ここに来ればいつでも見れますが、工事中なんて滅多に見られません。むしろラッキーと思いますよ。どうぞお出かけ下さい。

さて、雷門の工事とは何の関係もありませんが、私が住んでいるマンションにも修繕工事が入ることになりました。築15年を越したので外壁の亀裂を直したりするそうです。

鉄筋コンクリートの建物と申しますのは、文字通り鉄筋をコンクリートが覆っていますが、そのコンクリートに地震や風雪の力で亀裂が生じますと、そこから中へ水が浸透してしまいます。水が鉄筋に接触するといけませんので、修繕するわけです。私も店のビルのオーナーですので、その辺りの事情は分かります。

しかし、困りましたのは、ベランダを空にするよう、管理組合から命じられたことです。

す、すっかり空に、ですかあ。

困りました。ベランダは第二の物置と化していますから、色んなモノを撤去しないといけませんし、それ以上に困りましたのは、スノコも取り外すようにと命じられたことです。

そのスノコは、新築の時にオプションで付けてもらったものですから、15年以上付いたままでして、外し方も知りませんし、それにスノコと床本体の間には、長年の間に堆積した土砂があります。

8月から気管支炎を患っていますので、取り外し作業にかかるのを避けておりましたが、ついに「明け渡し日」が来てしまいました。

それが、この前の定休日の日でした。

仕方ないので、その日は朝からモノの撤去とスノコの解体に従事しました。

スノコの外し方を会得するのには時間はかかりませんでした。

スノコはちょうどエクセルの表のような形をしていて、6センチ角のピースが組み合わせられています。1×1ピースだったり、1×3ピースだったり、3×3ピースだったり、パターンが色々ありまして、それをベランダの形に合せて繋げてありました。

組み合わせ方の見当をつけて外して行けば、気持ち良くパキパキと外れて造作もないことでした。

ただし、この作業は腰を落として床を睨みながら進めるわけですから、腰を炒めるイヤ腰を痛めないように注意して進めます。結局120ピースほどのスノコをとり外すことに成功しました。

難儀しましたのは、やはり土砂でした。

鼻の穴にチリ紙を詰め、勿論マスクをして完全防備で臨みましたが、この土砂を取るのは実に重労働でした。

途中から家庭用の箒では埒があかないと思い、店に行って、雷門横丁一斉清掃用の箒を借りて来ました。よく公園で落ち葉を掃いている、あの大きい箒です。

その大きい箒を使って、土砂を掃きます。掃いても、掃いても粉塵が舞って、しばらくするとまた床に落ちますから、また掃きます。

解体工事の現場みたいに粉塵が舞いますが、これしきのことに負けてはいられません。

調子に乗って興奮してくると、徹底的にやらずにはおられない性格なのです、私は。

掃いても、掃いても粉塵が舞って、しばらくすると床に落ちますから、また掃きます。

ゼッタイ気管支炎が再発すると思いますが、また掃きます。

この作業に従事すること3時間半。

ベランダは、まったく何も無い、まさにすっかり空の状態になりました。

目出度し、目出度し。

いやあ、筋肉痛一直線だなあ。

体力回復に、すき焼きでも食うか!

なお、雷門の改修工事は11月末日まで、我がマンションの改修工事は26年1月末日まで続きますので、ご承知おき下さいませ。

 追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は366人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.306日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

 

 

 

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5代目と3代目

河路和香先生の長篇時代小説『どぜう屋助七』は、「駒形どぜう」さんの4代目を主人公にした小説です。文芸雑誌「Jノベル」に連載されてきて、9月号で無事最終回を迎えました。

この小説には、狆を売っていた頃の私の祖先・住吉やすも登場するのですが、やすはあくまで脇筋なので、いつかお話しするとしまして、今日は最終回の、4代目が亡くなる前後の、本筋の部分を読んで気づいたことをお話ししたいと思います。

さて、料理屋の店主としては破天荒な生涯を送った4代目が39歳の若さで亡くなったのは明治4年、明治維新の直後のことでした。

この時点で、「駒形どぜう」さんには、ご隠居すなわち3代目と、修行を終えて戻って来たばかりの若旦那すなわち新5代目がいました。

若旦那はまだ若くて父から充分な事業継承を受けておらず、しかし新時代の新しい発想だけは吸収しています。その5代目と3代目の対話の部分が、事業継承の物語として、興味深く読める部分です。

5代目は、4代目の四十九日を終えると店をぬけることが多くなり、いったい何をしているか、と申しますと、

不動産経営や、米の相場。

当然、その様子を見た3代目が苦情を言いますが5代目は独自の理論で反論します。曰く、

「金儲けは別のところでやって、(どぜう屋は)一種の道楽で、損をしてもいいように、安い値段で続けたい、っていうことなんだよ」

「だからどぜう汁も鍋も値上げはしない。世の中のために、安くてうまい店を続けたいんだ。だから、それを別のところでがっちり手堅く稼ぐんだ」

これには、真面目は3代目は「そんな・・・」と絶句してしまいます。

さらに5代目は、購入した農地で農業を始めてしまいます。「川上との統合」ですね。

材料は出入りの業者から買うもの、と考えている3代目から見たら、おそるべき発想です。

ダメ押しで「おじいさん、もう昔とは時代が違うよ」

「どぜう屋は一種の道楽」というのは、現当主6代目が言っておいでのことに近いですが、こんな昔から言っていたんですね。

もっとも6代目は不動産とか相場ではなく、外食産業を展開することで、利益を出しておられるようです。

さてさて、この5代目と3代目の対話、どちらにも理がありますが、皆さんはどう読まれましたでしょうか。

 追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は361人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.298日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

 

 

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救急です!

その日はサンバカーニバルの日でしたので、店の玄関に出ていました。猛暑が戻って来た日でした。

外を見ていましたら、年配の男性つまりオジサンがよろめいているのが見えました。

おや!と思いましたが、酔っているのかなあ、と思いとりあえずは放置しました。サンバの日は朝から場所取りしながら飲んでいる人が多いからです。

猛暑の中で朝から居続けて、具合が悪くなったんでしょうか。

そうしましたら、

あっ、ああー!

そのオジサンはもう一度よろめき、しかも今回は顎から地面に落ちたのです。しばらくして口から流血が始まり、路面に血だまりが出来始めました。

こうなると、もう119番しかありません。どうやら連れの人はいないようで、私がかけるより他ありませんが、実は私は119には慣れています。

店でたまにお客様が気分を悪くすることがあるからです。「神谷バー」の神谷さんほどではないですが、慣れています。

まず病人の目の前で携帯でかけるのがコツです。状況を説明しないといけないからです。さて、

火事ですか、救急ですか。

はい救急です。店の前で、60歳くらいの男性が倒れて血を吐いています。知らない方です。通行人です。

屋外ですか。

はい、屋外で商店街です。住所言いますね。台東区浅草1-3-4。よろしくお願いします。と、5W1Hを炸裂させました。

救急車は、すぐ来ました。東京消防庁、Good Jobです。

住所を言っただけで、場所は「ちんや」ビルの前ですね!と既に把握しています。Good Jobです。

しかし困ったことに、今はまさに、サンバカーニバルの開始時間直前。

停車している救急車の後ろから、大音響のサンバ隊が接近してきます。

ここでパレードを止めたら大変です。

しかし、そこは流石、東京消防庁。テキパキと処置して救急車は緊急発進。

間一髪でパレード中断を免れました。

皆さんも、猛暑にはお気をつけ下さい。

追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は361人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.280日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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伊勢参り⑤

お伊勢様に参拝して来ました。

参りまして、地元の方と話しておりましたら、

伊勢の人間に「伊勢は観光地なんだ!」という意識が足りない。

という御意見を聞かされ、意外な話しを聞くものだ、と思いました。

「伊勢参り」と言えば、江戸時代には年間200~400万人もの客が訪れた、と聞きますから、間違いなく日本最大級の観光地だったと思うのですが、その繁栄が今日まで続いてきたわけではないのだそうです。

高度経済成長時代を過ぎた頃客数が落ち込み、1970年代後半には20万人にまで落ち込んでしまった、と言います。その後長い低迷期が続き、回復を始めた時期は、意外に最近で、前回の遷宮=1993年だと聞きました。

「観光地なんだ!」という意識が足りなくなったのは、この低迷期があったからでしょう。

回復のキッカケが「おかげ横丁」の開業であることは、既に広く知られているかもしれません。

当時の低迷状況を打開しようと、老舗和菓子店の「赤福」さんが立ち上がり、「おかげ横丁」の建設に着手しました。

建設費用140億円は当時の「赤福」さんの年間売上高とほぼ同額という巨費でしたが、行政から補助金を受けることなく1社の自己資金で賄ったそうです。この話しも有名かと思います。

以降、「横丁」開業前の1992年には年間32万人だった街の往来者数は増加に転じ、2002年には300万人、2007年には400万人、今回の遷宮では800万という数字が話題に上っているそうです。

1970年代と言えば、浅草も最悪の時期でしたから、なんだか、親近感がわきますね。

さて今回の遷宮では、商工会議所を中心にJR伊勢市駅から外宮へ続く一帯が整備されているようでした。以前JR駅の周囲は、

天下のお伊勢さんなのに、なんでこんなにシャビーなの・・・

と思う位寂れていましたが、だいぶ綺麗な街になっていました。

それでも伊勢市内には、まだ魅力的な宿泊施設が少なく、泊まり客は鳥羽・志摩へ流れがちだそうです。実際、私達レストラン協会一行も鳥羽の旅館に泊まりました。

かつて旅籠や遊楼が立ち並んでいた花街一帯が再び賑やかに成った、というわけではないようです。

その昔の「伊勢参り」は、まず外宮に詣で、それから内宮にも詣でましたから時間がかかりました。ですので伊勢に宿泊しますし、宿泊すれば楽しい(=悪い?)こともします。

それで外宮と内宮の間に旅籠や遊楼が在ったわけですが、今時の観光は時間がないので、そんな悠長なことは致しません。

内宮へ直に乗りつけ、「おかげ横丁」で赤福を買って、伊勢参りは終了です。

重ね重ね、どうも浅草に似ています。

客数増を単純に喜べない私は、ヒネクレ者でしょうか。

追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は361人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

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天然氷

お暑うございます。お客様から、

浅草に、天然氷の、かき氷を食べられる所はない?

と聞かれ、不覚にも答えられませんでした。基本的に甘いものには疎いのです。はい、酒飲みなんもんですから。

で、仕方なく、ネットで検索しましたら、ありました、

「暑い夏にはやっぱりコレ☆東京で天然氷のかき氷を食べられるお店ランキング」

というサイトが。

どれ、どれ、

10位=「とちまるショップ」

住所:東京都墨田区押上1-1-2 東京ソラマチ 4F

「東京スカイツリーのソラマチにある、栃木県のアンテナショップです。

栃木だからこそ、とちおとめを使ったシロップがウリ。

さすがにウリなだけに、美味しいと評判です。スカイツリーを眺めて、その帰りにふらっと寄ってみるのも良いですよね。」

うーん、浅草から遠くはないけど、夏休み中は込んでるんでしょうね。

9位=恵比寿、8位=江東区富岡、7位=銀座、6位=世田谷区下馬

やはり浅草は出てきませんな。

5位=秩父郡皆野町金崎 東京じゃないじゃないか!

4位=北区十条仲原、

3位=柏市柏 東京じゃないじゃないか!

2位=藤沢市鵠沼海岸 もう!東京じゃないじゃないか!

そして、

1位=「ひみつ堂」

住所:東京都台東区谷中3-11-18

「やっぱり天然氷のかき氷と言えば、ここは外せません。

行列必至のお店です。夏に炎天下の中、数時間は当り前・・・なんてことも。

それでも食べる価値ありの、美味しいかき氷なんでしょう!最近、マスコミ等でも「天然水のかき氷と言えば」と枕詞のように出てくるようになったひみつ堂。だからこそ、行ってみたい、でも混んでる・・・」

と、ありますから、ここが本命なんでしょうね。

不勉強でした。

行ってみないといけませんが、谷中は台東区なんですけど、山の向こう側だから、遠いんだよなあ。

外は暑いし・・・

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21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

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その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

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皆様も、是非御参加下さい!

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開園160周年

浅草の遊園地「花やしき」さんが開園160周年を迎え、記念セレモニーを開いたそうです。

そもそも「花やしき」さんは、江戸時代末期の嘉永6年(1853年)に、造園師・森田六三郎が牡丹や菊細工を見せるための、文字通り、花やしきとして開園したのが始まりです。

その後、浅草奥山が流行の地になるにつれ、珍獣・猛獣を飼育・展示する動物園のような施設に変貌、五階建てのランドマークタワー「奥山閣」も建設したりして、なかなか華やかだったようです。

「奥山閣」は最上階に鳳凰を載せていたので「鳳凰閣」とも言われ、「ちんや」が所蔵する開化絵で、その姿を見ることができます。

その後、関東大震災や戦争で一時閉園。戦後の昭和24年に娯楽機メーカー経営の遊園地として再開されました。

いったん経営危機に陥りますが、親会社が変って最近はご盛業です。

今の体制になってからは、「夜間貸し切り」といった、斬新な商売のアイデイアが出て来るようになってきました。

これに目をつけたのが茨城県酒造組合さん。

「夜間貸し切り」で「地酒祭り」を開催したのです。

30社以上の酒蔵が出品し、フードも多少ありまして、園内のそこここで、700人もの人々が酔態を繰り広げる、という催しが、既に2回開催されています。今年の10/11にも、その第3回があるというので、私は非常に楽しみにしています。

「花やしき」さんの、ますますの御盛業を記念します。

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21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

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現在の笑顔数は361人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

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急遽中止

今年の花火大会は荒れてしまいました。

と申しますか、花火打ち上げ開始後に急遽中止、というのは隅田川では初の事態です。

前日から「大気が不安定」という予報が出ていましたので、大会の公式サイトで確認しようとしましたが、アクセス殺到で接続できず、情報が獲れません。

そこで墨田区観光協会の確たる筋に直に確認しましたら、決行で間違いなし、とのこと。その後も私は17時頃まで、ずっとネットで雨雲レーダーを観ていましたが問題なく、安心して屋上に上がりました。

しかし、しばらくして急に気温が下がり突風がふいて、雷も落ちましたので、慌てて撤収しました。

私は視ていませんでしたが、テレビ東京の生中継も大混乱だったようです。

7時に打ち上げ開始して、25分過ぎた頃には、高橋真麻アナウンサーの傘が飛ばされ、びしょ濡れになり、

「雨が凄すぎて、逆にテンションが上がりますね」とさながら「台風リポートのよう」に。

38分ごろには「突風や竜巻のおそれ」とのテロップが。

ついに40分、総合司会の俳優の高橋英樹さんが、

「残念なお知らせです。花火は中止になりました。さすがにこの雨、風、雷で花火を打ち上げるのは危険ということで」

ゲストの女優・樹木希林さんは、

「わたしね、この歳になると何でも忘れちゃうんですけど、たぶんこの日は忘れないと思います」と苦笑いだったとか。

その後、真麻アナは「びしょ濡れ中継」が「真麻よくがんばった」と評価されて、人気が急騰している、と言いますから、まさに「災いを転じて・・・」ですが、洒落にならないのは主催当局です。

花火を開催する・しないは朝8時に決定する慣例なのですが、今後もこうしたゲリラ豪雨が降るようだと、主催当局は難しい判断をさせられるようになるでしょう。

困ったことです。

追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は361人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.248日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

 

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ボランティア・ガイドさんの為に

「東京シテイガイドクラブ」(TCGC)という、ボランティアで東京ガイドをする皆さんを相手に、講演をすることになりました。

この皆さんは、まず「東京シテイガイド検定」という、なかなか難しい試験に合格し、さらに、個々に古典芸能文学・神社仏閣・美術・商店街・産業観光といった専門分野を持ち、さらにさらに英語・各国語での案内も請け負う、という素晴らしい皆さんです。

今回私がお話しするのは、その内の勿論「グルメ専門グループ」の皆さんです。

<以下が、その全文です。読むのに90分かかりますので、ご注意ください。>

東京シティガイドクラブ皆さん、このたびはご来店いただきまして、ありがとうございます。早速話しを始めさせていただきます。

住吉でございます。ただ今よりすき焼きの話しをさせていただきます。今日は選挙の先日でございますけどね、ここにおいでの皆さんが無党派なんでしょう。言うことに制限が無くて助かりますが、しかし慎重に、軽口は無しで国会答弁のように進めたいと思いますので(笑い)、よろしくお願い申し上げます。

では、早速参りますが、今日はですね、最初にすき焼きの歴史の話しを、30分程度時間をとってさせていただきます。そこを押さえていただきませんと、この世の中におけるすき焼きの位置づけというものが分かりませんで、位置づけが出来ませんと、結局現代のすき焼きの話しも出来ませんので、最初の30分は料理業組合の勉強会みたいな話しをします。ご退屈とは存じますが、どうぞご勘弁いただきたいと思います。

さてまずルーツの話しからです。いくつか説がございまして、魚介類と野菜を杉の箱に入れて味噌煮にしたから「杉焼き」だとか、農具の鋤の上で焼いたから「鋤焼き」だとか、、肉を剝(す)いて薄くするので「剝き焼き」だという説もありますが、本当にそうした文献上の料理が受けつがれて来て、やがてすき焼きに成ったのか、私はわかりませんし、多分調べようがないですし、正直私はあんまり関心が無いです。それに皆さんも、そういう話しはつまんないですよね、だから「へえ、そういう説があるのね」位にしておいて、先に行きたいと思います。はい、この部分に興味を抱いていた方には、ゴメンナサイでした。

現代のすき焼きに直結しているのは、江戸の街で密かに営業していた「ももんじ屋」または「ももんじい屋」の料理で、けものの肉を鍋物にして食べさせていたようです。当然、当時表向き肉食はタブーですから、「薬喰い」と称して、アングラで食べていました。獣の産地は江戸郊外で、農民が害獣である猪や鹿を駆除した時、それを利根川で江戸へ運んでいたそうです。牛や馬は害獣でなく役にたつ動物ですから、さらにタブー感が強かったはずですが、それでも牛肉・馬肉を食べさせることがあったようです。ここで食べられていた料理が今日のすき焼きの、直接の原型です。今でも両国で1718年ご創業の「ももんじや」さんが営業していますね。両国橋を渡ると、すぐ右手のビルの外壁にイノシシが逆さまに吊るしてありますから、行けば「おおっ!」と思うはずですが、あの御店はそうした御店の生き残りです。

で、その「ももんじや」で食べられていた、牛鍋が明治時代になりまして解禁になるのですが、その前に幕末に「プレ解禁」がありました。「プレ解禁」の原因は言うまでもなく、日本に入って来た外国人の影響です。1859年に横浜が開港しますと、居留地の外国人の需要に応えて、肉を調達する必要が生じました。当時は日本に畜産業がなかったため、農耕作業に使った牛を、退役させて潰して食用にするようになりました。1864年には横浜に屠牛場が開設され、幕府から公認もされたようです。維新の4年前の話しです。

時に皆さんは15代将軍・徳川慶喜のあだ名を知ってますか?「暴れん坊将軍」じゃないですよ!それは松平健さんですからね。慶喜は豚が好きで食べるので、「豚将軍」「豚一殿」とあだ名されていたんですね。将軍が豚を食べる位ですから、牛鍋屋も、もはやアングラではなく、公然と開業し始めます。高橋音吉という人が牛鍋屋「太田なわのれん」を創業しましたのは、そんな中のことでありまして、時は1868年すなわち明治元年、場所は横浜末吉町でございました。

やがて牛鍋屋の開業ブームは横浜から江戸にも飛び火します。1867年に中川嘉兵衛という人が江戸のはずれ荏原郡今里村に屠牛場を設立しまして、江戸の牛鍋屋にも牛肉が供給されるようになります。その場所は現在の白金台2丁目です。その辺りは今では、シロガネーゼのお洒落な街ということになっていますけど、当時は田舎だったんですね。

で、この屠牛場は近代的な屠殺場であったようです。当初は外国人向けが主でしたので、衛生的な取扱いには気をつかっていたようで、それで、今日の感覚からすると少し驚く話しですけど、この屠牛場で屠殺した牛がブランド牛になって行きます。どこで飼われていたか、ではなくて、どこで屠殺されたか、がブランドだったんです。今でも「今半」さんとか、「今朝」さんというすき焼き屋さんが在りますが、「今」の字が入っているのは「ウチは今里村屠牛場~後には「東京共有屠牛場」という名前になりますが、そういうチャンとした所から牛を買っている、チャンとした店だ!」ということを主張しているですね。ももんじや系の店でも牛鍋を出していたわけですが、「同じような料理だけど、私屠殺の牛は使ってないよ!」という意味が店の名前に込められているわけです。トリビアでしょう!次にカノジョと「今半」さんに行ったら話して自慢してみましょう。

さてさて、1872年ついに明治天皇が初めて牛肉を召し上がりました。そのことが報道されまして、肉食は完全に解禁。解禁どころか、文明開化のシンボルになります。1877年の東京における牛鍋屋の数は550軒を超えるほどであった、と伝えらえていますから、いかに当時の牛鍋のブームがスゴかったか、お分かりいただけると思います。今日すき焼き屋を続けている店のほとんどが、この頃に開業した者の生き残りです。ただし、言い方は変わっていますね。関東では大正時代まで「すき焼き」と言わず「牛鍋」と言っていましたから、我々は牛鍋屋の生き残り、というのが正確です。

ここで昔の調理方法のこともお話ししておきましょう。

横浜の「なわのれん」さんの食べ方は味噌煮込みですが、このやり方は、今では珍しいですが当時は珍しい方法ではなかったようです。明治初期の牛肉は、そもそも肉用に育てられていませんから固くて、また放血の仕方が上手でなかったために獣臭さがキツかったようです。それで、臭さを緩和し、また肉をやわらかくするために、ぼたん鍋や紅葉鍋に類似した方法で調理したようです。つまり味噌仕立ての味付けでした。

後に肉質が良くなるにつれて、味噌から醤油と砂糖などで作る割下で煮る方法が主流になっていったようです。一方、関西では、皆さんご存知の通り、醤油と砂糖を事前に煮合わせないで、鍋の上で混ぜる方法が主流です。

具材の内容ですが野菜は最初は寂しくて、ネギのみの場合も多かったようですが、ネギは臭み消しのスパイスとして必需品だったので、ネギは必ず入っていたと思われます。

ネギというのは大変便利な食べ物でして、生だと辛味があってスパイスになります。しかし加熱すると甘くなってきて野菜として美味いです。重宝な食べ物なので、ネギはすき焼きの第二の主役なのです。その後明治20年代辺りから大正時代にかけて、すき焼きは高級化を始めたようです。具体的にはザクの具が増えます。この頃白滝や豆腐が使われ始めましたが、この皿はザクザクと切ることから「ザク」と通称されるようになりました。そして高級化では、関西の店の方がやや先行していた模様です。現存してはおりませんが、関東大震災の後に関西から東京へ進出したすき焼き屋があったと聞いています。店が現存していませんので、どういうすき焼きだったか、ハッキリとは分かりませんが、わざわざ東京へ進出する位ですから、創意工夫をこらし、気合いを入れて出て来たと考えて間違いはないと思います。で、この傾向は東京勢つまり関東式の牛鍋屋には相当脅威であったようです。関東では牛鍋屋は当時「牛屋ぎゅうや」と言われて、あいかわらず下卑た店、という認識でした。「牛屋の女中」といいますと、下品で愛想が悪いが体力はある、という意味でして、これでは高級化できません。関東大震災が起きて打撃を受けたところへ高級なライバルが現れたので大変だったと思います。関東の牛鍋屋が「牛鍋」と言うのを止めて、「すき焼き」と言うようになったのは、この頃でして、中には、もう廃業した御店ですが『高等すき焼き』という名前にした店すらありました。ザクの具材も、おそらく「高等」にするために増やしたんだろう、と想像します。この御店は10年位前まで現存していて、最後まで『高等すき焼き』というメニュー名を使っていまいた。「牛屋」と蔑まれているようでは、やっていけない、という恐怖感が、こんな滑稽な名前のメニューを産み出したんですね。勿論牛鍋という名前に誇りをもって護っておいでの店もありますが、かなりの数の関東の牛鍋屋が名前を変えました。その背景は、そんな感じだったと御理解下さい。

さて、牛の話しよりザクの話しが先になってしまいました。牛のブランド化の話しもしてに誇りをおきましょう。今では全国各地に牛のブランドがありまして、牛と言えば「〇〇ぎゅう」ですが、ブランド化の歴史は、実はそんなに長くありません。

日本初の牛のブランド=神戸ビーフは生産地のブランドではなく、流通経路の途中の集積地の地名でした。神戸の居留地の外国人が肉を求めたことが、神戸ビーフの「そもそも」でありまして、ブランドと言いましても、今とはかなり感覚が違います。「伊万里焼」は伊万里で焼かれておらず、伊万里は積み出し港の地名でしたが、それと似ていますね。今現在は兵庫県北部の但馬地方の牛のことを「神戸ビーフ」と定義していますが、明治時代には事情が違っていましたので、ご注意願います。

生産地の地名がブランドになるのは、1935年(=昭和10年)以降のことでありまして、松阪牛が『全国肉用牛畜産博覧会』で名誉賞を受賞したことから全国的に知られるようになりました。しかし、この後すぐに日本は戦争に突入してしまいまして、第一回の松阪肉牛共進会が開始されたのは、戦後の1949年(=昭和24年)のことでした。

この辺りが牛のブランド化のさきがけです。これ以前は、肉牛の生産と申しましても、最初は田圃で使役するわけです。ですので1960年頃(昭和30年代中頃)まで「肉用牛」とは言わずに、「役肉用牛」と言われていました。最初から肉牛として育てていなかったんですね。それがブランド化の進展と並行して、「役」が取れていったわけです。で、肉質も変わって行きまして、今日皆さんが良く目にする所謂「霜降り」の肉が登場するわけです。

ここでもう一回整理しますと、「今半」「今朝」と言った場合、それは近代的で衛生的な屠殺場から牛を仕入れている、という意味のブランドで、次に神戸ビーフと言った場合は、牛が売られている土地のブランドで、その次に松阪牛と言った場合は、牛の生産地のブランドという具合に、ブランドの意味あいが変化してきたわけです。3番目の産地ブランドが確立したのが昭和30年代のことでした。そして、さらに申せば、それ以降は、あまり画期的はことが起きていなくて、今は個人ブランドが2~3在ったりしますが、全体的にはあまり進歩していない、と申すことができます。これ以上話すと愚痴が入りますが、なんか新しい発想ってないの?って私は思いますし、誰も出さないなら、オレが出そうかな!って最近は思ったりしています。

このように、たいていの料理は、時間をかけてだんだんに日本人の間に定着して来たのに対し、すき焼きは幕末から明治初期の、ごく短期間に国民食になりました。すき焼きは明治時代という特定の時代と結びついています。日本人が近代化へのチャレンジを始めた時代つまり現代へと続く道を歩み始めた時代の、民族的な強烈な記憶とすき焼きはつながっています。この点が、すき焼きを商売にする人間にとっては非常に大事な点ですので、ここであらためて指摘させていただきました。

さて、この段の最後に、関東風と関西風の話しもしましょうかね。ご存知と思いますが、関東風は割下ですき焼き、ですけど、皆さん、割り下をタレっていうのは止めて下さいね!そういうのは「Eバラ」さんだけにして欲しいです、ホントに。関西風すき焼きは、醤油と砂糖で、すき焼きと言っています。松阪はじめ中京圏も醤油と砂糖で、すき焼きです。関東風と関西風の境目はご存知ですか。それは豊橋でして、家によって両派混在しているそうです。また豊橋には「小林」さんという、醤油と砂糖なのだけど、最初に野菜を入れる珍しい店があります。トリビアですよ。飲み会トークのネタにして下さい。

はい、ここまで大丈夫ですか、徳兵衛さん、起きてますか、ここでストレッチしますね。はい結構でした。 

次に、浅草にすき焼き屋が多いわけもお話ししておこうと思いますが、その為には、浅草の歴史もある程度押さえていただく必要があります。ですので、話しは、イキナリ推古天皇の頃に戻ります。またまた30分ほど浅草の話しになりますが、大丈夫ですか。でも、ごくザックリですから。浅草史をさらってみたいと思いますが、そのことを考える前に、ですね、成田空港は東京か?っていうことを、まず考えてみると、浅草のことが分かりやすいです。成田空港は東京の首都機能の一部として建設されたわけですから東京ですね、当然。特に外人さんから見たら、完全に東京です。

でも成田という街は新勝寺さんを核に東京とは別に元々あった街ですよね。浅草もそうなんです。江戸とは別に、太田道灌が日比谷に城を築く前から在った街なんです。成田は東京とは別に出来た街ですが、東京首都圏に吸収されました。浅草も江戸とは別に出来た街ですが、江戸に吸収されました。そこが似ているんです。

では、ざっくりと話していきましょう。今日の話しはいたって、ザックリです。細かい年代とか数とかは言わないことが多いと思います。だって、ネットで調べられますからね、細かいことは。アウトラインだけを、お分かりいただくようにしますので、よろしくお願い申し上げます。

さて浅草寺の縁起によりますと、推古天皇の時代に浅草寺が建てられた、ということになっています。推古天皇と言えば7世紀ですね。縁起の筋は、隅田川で漁をしていた人が、川から仏様を網ですくいあげて、それを安置する御堂を建てた、という例の有名な話しです。この話しは歴史としては確認できていませんが、奈良時代に大きな建物があったことは考古学的に確実だそうです。ですので、浅草が道灌より古いことは間違い無いです。つまり江戸を築かれる遥か昔から、浅草は在ったわけで、街の成り立ちが違いますので、浅草は東京の盛り場の一つに過ぎない、とは言えないわけなんですね。浅草の方から見ると、江戸の方が後から出来てきた、ということになるわけです。もっとも、江戸とは別に成立していた浅草は、この当時は、まだ盛り場っていう感じではなかったと思います。隅田川の水運の拠点として、浅草寺の門前町として、まあ、それなりの賑やかさっていう位だったと思います。日本一の盛り場という感じにはまだゼンゼン成っていません。

そこへ徳川家康がやって来ます。やって来て江戸時代になりましても、江戸初期の江戸の市街地は、現在の千代田区と中央区位の大きさでしたから。まだ江戸と浅草は別物でした。17世紀までは別だったと考えられています。その間の、アキバなんて所は湿地帯でした。あきばはらって言う位ですから。アキバの原っぱだったんですね、あの辺は。後に、ハとバが入れ替わって、あきはばらになりますけどね。

さて、その江戸と浅草をくっ付けたものは、なんでしょう?それは、蔵ですね。蔵と申しましても酒蔵じゃあないですよ。いいですか、酔っ払いの皆さん、米蔵です、お米の蔵です。江戸時代、武士の給料は米で支払われていましたから、当然そのお米を保管しないといけないですね。で、そういう倉庫をたくさん建設したわけです。当時の輸送手段は舟ですから、隅田川ぞいに蔵を建設しました。場所は、浅草から地下鉄で1駅南の蔵前、つまりは江戸と浅草の間ですね。現在でも東京郊外に行くと、倉庫が立ち並んでいる地帯がありますが、似てますね。そういう次第で米の倉庫が、江戸の北側の郊外で、浅草のすぐ南の、蔵前に建設されました。もっとも蔵前に蔵が建設された、っていうのはおかしいですね。蔵が建設されたから、蔵前っていう地名になったんですよね。

さて、ここに蔵が出来たことが、浅草の運命を大きく変えます。ごく普通の門前町が天下一の盛り場へと変貌を遂げる、そのスタート地点がこの頃です。変貌の主役は「札差」という商人です。武士たちのために、米を保管するだけでなく現金にも替えてくれる「札差」という商人が出てきましよね、歴史の教科書に。習ったでしょう。覚えてませんか。勉強はしておくもんですよ。この取引からは莫大な儲けが出たらしくてですね、さらに儲けを金貸しに回して、さらに儲けたようです。それで、「札差」が大きな力を持つようになったそうです。浅草が発展した軍資金は、この札差マネーです。大富豪となった札差たちには当然豪遊する場が必要ですから、遊興できる店が出来るようになります。これが浅草のホップと言えます。

そして、ステップとジャンプは、1657年と1841年でした。まず1657年すなわち明暦3年の出来事ですが、「明暦の大火」という大変な被害の出た火事の後、幕府は都市整備に着手します。そして、その一環で、現在の中央区にあった、公認の遊郭である吉原遊郭を浅草北方の千束に移転させます。遊郭は当然風紀を乱しますので、江戸の中心部からどけたいですね。それで江戸の外の、しかも方角の悪い北東へ追いやったわけです。

方角が悪いって失礼な話しですけどね、だいだい江戸が浅草の南西に出来たから、北東に成っただけで、こっちのせいじゃあ、ないんですけどね。

ともあれ、吉原が浅草の頭の上に移転して来ました。移転して来ましたので、「新吉原」と呼ばれたそうですが、ここがまさに天下の豪遊の場となります。今や、お金持ちが居て、お金を使う場がようやく出来ました。その間に浅草があって、観音様もあるわけですから、ここにお金が落ちないわけはありませんね。このステップは大きかったようです。

そしてそしてジャンプは江戸時代も、もう後期に入った1841年(天保12年)です。これまた歴史の時間に習わされたと思いますが、「天保の改革」が実行されます。江戸市中に散在していた歌舞伎座が、風紀を乱す、ということで、これまた、北東に追いやります。場所は、浅草北部の浅草六丁目で、浅草寺と吉原の間です。勘三郎さんの御先祖の中村座、それから市村座、河原崎座といった小屋ですとか、操り人形の結城座なんていうのもできました。役者さんも集合して住まわせ、浅草猿若町と名づけました。これが浅草の発展のジャンプです。

 なにしろ、当時江戸市中でお金が集まる所と言えば、魚河岸と吉原と、猿若町だったそうです。魚河岸の場所は築地じゃないですよ、この頃はまだ日本橋にありました。

そして残りの二つは浅草の、近所です。浅草が天下第一の盛り場になったのは、この頃と言えます。

この時点で浅草は天下一の盛り場でしたが、さて明治時代になって、さらに繁栄を謳歌します。

 キッカケは「公園」の整備に関する、新政府の布告です。明治6年の、この布告により浅草寺境内は「浅草公園」と命名されたのですが、この時決めた「公園」が日本初の「公園」です。最近は言いませんが、以前は浅草のことをエンコと言いましたね。「エンコ行こうぜ!」って言うわけです。そのエンコの語源が公園です。公園をひっくり返しただけなんですけどね。まあオカジューと一緒です。

 でも「公園」って聞いて?と思いますよね。浅草って公園ですかねえ。でも「公園」だったんです。この当時の日本人は「公園」という言葉を分かっていなかったんです、この頃造られた新語だったからですね。当時はどう解釈されていたのかと申しますと、公けに遊興して良い場所とか、遊園地と考えていたようです。もう少し言えば、「公園」即ち盛り場っていう感じです。

 それで「公園」は、設立の趣旨とは違って、盛り場化する傾向にあったようです。公園本来の、西洋式の正常な発展をとげた公園は、まず上野公園位のもので、それはボードワン博士とかいう方の功績だそうですが、その他の「公園」は盛り場と化して行きます。「公園」がそうなって行った理由ですけど、当時新政府は財政が厳しくてカネがありませんでした。そこで公園経営に必要な経費を稼ぐため、敷地の一部を賃貸しするんですね。それも射的とか、玉突とか、楊弓とか、見世物なんかの店に賃貸してしまったのです。浅草の場合は、賃貸ししたどころではなく、土地を掘って「ひょうたん池」という池を造り、池の周りを造成して街を用意し、そこを貸し出した、と言いますから、ほとんど不動産屋ですね、新政府は。

 この時に造成された一帯こそ、明治・大正・昭和戦前と日本一の歓楽街と成る浅草公園第六区縮めて「六区」です。今でも楽しいショーを見せてくれる「ロック座」がありますが、ロックンロールをやる座じゃないですね、六番目の区画です。女性もおいでなんで詳しくは割愛しますけどね。さてなんでしたっけ。そうそう、そういうわけで、「公園」なのに公園じゃない浅草公園が出来上がりました。その浅草公園について、上野観光連盟のHPには、こういうことが書いてありましてね、読みますが・・・

 上野公園の場合は、管理が宮内省だったので、自由な経営が許されず、そのお蔭で、公園の手本とされるような発展経過をもち、一千万を超える大東京の中にあって広さにおいても、施設、景観、緑地など都市公園として、内外ともに誇りうる上野公園となったのである。もし上野公園にした所で、管理が宮内省に移らずに東京府に委ねられていたら浅草、深川、芝の三公園と同様俗悪化の道を辿ったにちがいない。」

 うーるせいよ、っていう感じですけどね。でも、そういう話しは、まあ置いと・い・て、ですね。浅草に戻しましょう。このような次第で、浅草は盛り続け、時代が下ると今度は演劇館、活動写真館、「浅草オペラ館」などの上演が連日行われるようになります。浅草は芸能の殿堂、と言われたのが、この時代ですが、その盛り場を政府が作ったっていうところが、歴史のチト思い白いところです。

「ザックリ浅草史」をいったんまとめておきましょう。まずですね、浅草は江戸とは別に、江戸が出来る前から成立していた街でした。後から、江戸が浅草の南西に出来て、次いで江戸の米を扱う米蔵が、江戸と浅草の間に出来ました。これによって、蔵と一緒にお金が浅草の近所にやって来ました。さらに、幕府の政策で、浅草の北に吉原が、浅草と吉原の間つまり浅草のすぐ北に歌舞伎座が出来ました。このことが、盛り場・浅草の運命を決定したわけです。例えて申しますと、バチカンとウオール街とブロード・ウエイと、それから吉原が並んでいる、という感じのアリエンテイーなラッキーさの上に浅草は成立しました。だから浅草は東京の繁華街の一つでは断じてなく、世界史にもあまり見かけないようなユニークな街なんです。さらに、明治時代に入って東京府の政策によって、さらに繁華になり、日本随一の盛り場になります。

はい、浅草の歴史を30分ほどでザックリ追って参りました。そういう浅草にすき焼き屋がたくさん開業するわけですが、「浅草にすき焼き屋が多いわけ」~それは先に結論を言ってしまいますと、特に深い理由はなく、結果的にそうなっただけと思われます。明治5年~15年頃に、牛鍋屋の流行がありまして多数の店が開業しました。 既に明治10年には東京府下に488軒もの牛鍋屋があった、と言いますから、かなりすさまじいブームだったようです。この時期が、浅草の繁華街としての全盛期に当たっていて、浅草は日本随一の繁華街でしたので、店を開業しようとする者は、場所として浅草を選んだと思われます。すき焼きとか洋食は、その時代の新文化・新ビジネスですから、ビジネスとして成立させるために、経済力のありそうな土地へ出るのは当然のことで、浅草に店が出来たのは当然の成り行きと思います。例えば、今半さんと米久さんは、地方から上京して来て、浅草を選んで開業しています。逆に、以前から浅草で商売をしていた者が、牛鍋の大ブームを見て、商売がえした者もいます。浅草が栄えていたので飲食店の方が儲かると考えた者がいたんですが、そう、手前どもの御先祖のことして、御先祖は実は、江戸時代から浅草で犬の狆(ちん)の、狆屋をしておりました。当時の大名家や豪商などは、ペットとして狆を飼う習慣があったんですね。現代でも犬を可愛がる方がおいでですが、狆もたいそう可愛がられたそうで、狆の墓があったりする位です。その狆の、良い血統を、手前どもの御先祖が押さえていたようでして、現代風に言えば、狆のブリーダーですね。そして、売った狆の具合が悪くなれば獣医として治療したりもしていたようです。

その狆屋が、明治時代になりまして、すき焼き屋(牛鍋屋)に商売変えしました。理由を書いた書類はありませんので、想像するのみですが、犬の趣味が変わったことが大きいのでは、と私は思っています。天下泰平の江戸時代には可愛いペットが愛されまして、特に狆を飼うのはお旗本の奥方とかでしたから、狆は女イメージの犬でした。ところが、続く幕末・明治は戦争や政争が続く騒乱の時代ですから、世の中の犬の趣味が変わりました。上野の西郷さんは犬を連れていますが、狆ですか?違いますね。西郷さんは猟犬を連れて、野山を歩き回るのが趣味だったようですが、そういうワイルドな世相の時代に狆は可愛い過ぎで、かつ旧時代のイメージに見られたと思います。要するに、時代が変わって、商売としての「狆屋」の将来性が脅かされましたから、手前どもの御先祖は、狆を捨てて、牛鍋に走ったものと思います。全盛時代の浅草に店を構えているのですから、狆屋をやるより、飲食店の方が儲かると考えたのだと思います、あくまで想像ですが。そんな経緯で、浅草にすき焼き屋が多いのです。

では、つぎび「ちんや」はどのような肉をお出ししているのか、それから、なんでまたそういう肉をお出ししているのか、つまり店の方向性のお話ししたいと存じます。

さてまず提供すべきなのは旨い肉です。しかし旨いのは当然で、世の中に旨い肉は結構あります。だから、それでは他の御店さんとの間に差異性が生じにくいですね。それにやたらと原価をかけて仕入れをして、それを良心的に売ってしまっては、ある意味デフレ経済です。良くありませんので、なるべく避けたいです。

時に皆さん、肉を食べて旨かったけどで、後から胃モタレがヒドくて往生した経験はありませんか。モタレて当然です。肉屋に言わせると、モタレて当然の肉が、公然とたくさん売られているのです。

そういう肉を「ちんや」も売って良いのでしょうか?勿論ペケですが、「なんとなくペケなわけ」でなく、そこに「ちんや」が特徴を出せるポイントがあるのであって、さらに申せば、店の理念に照らして、そういう肉を売ってはゼッタイにぺケなのです。

手前共は「思い出を作るすき焼き店」~特に御家族の思い出を作る店である、ということを重要視しております。

誕生日・初参り・七五三・合格・入学・卒業・成人式・就職・寿・出世・退職・還暦・古希そして法事~そういう御家族の思い出の日に「ちんや」を使っていただきたい、と念願しています。で、そういう機会に御家族が集まれば、その中には必ずお爺ちゃん・お婆ちゃんも入りますね。お爺ちゃん・お婆ちゃんにも召し上がっていただく肉だから、モタレてはいけないのです。絶対に。二度と来ていただけなくなります。「ちんや」が①旨くて②モタレない肉を売らねばならない、理由がここにあります。年配の方も含めてご家族で何度も来ていただきたい、それで肉がモタレてはいけなにのです。

どうしてそういう風に考えたかは、<商品としてのすき焼き>について一度考えてみれば分かります。すき焼きという商品の特徴は「生活不要品」、つまり在っても無くてもOKな商品だ、ということです。そう申しますと、そんなことないですよ!すき焼きは立派な食文化ですよ!日本にすき焼きが無くては困ります、という反応がたいてい返ってきますが、それなら税金で補助して貰えるんでしょうかね。貰えませんね。歌舞伎すら松竹さんの民営ですから、すき焼きも民営で頑張る他ないですが、では、さきほど「そんなことないですよ!すき焼きは食文化ですよ!」と言っておいだった人は、果たして頻繁にすき焼きを食べて下さいますでしょうか?そこが、心もとないんです。口で言うのはタダ。FBで「いいね!」するのもタダですが、我々が成り立つためには、時間を作り、予約を入れて、お金を貯めて、わざわざ浅草へ来て下さる人が大勢いないと困るわけです。

だいたい、今時はすき焼き以外にも美味い食べ物がいくらでもありますね。浅草以外にも遊びに行く所はあります。だから「なんか美味いものを食べたいな」という程度の意識のお客様がいるだけではダメなんです。歌舞伎見物が生きがいという方がいますが、同様にすき焼きが無ければ自分の人生真っ暗、という位に、メンタルに入れ込んで下さる方を獲得することが大事だと思います。言い換えれば、その方の人生における必需品の中に、すき焼きを入れて貰わないといけない、と思っております。

はあ、すき焼きを必需品にって、そんなことが出来んの?っていうことですけど、出来なくもないんです、すき焼きには。出来る理由は、すき焼きのイメージです。すき焼きは明治時代と結びついていて保守的なイメージですが、その保守的な感情が、家族で食事をする時の感情と結びつきます。それがすき焼き商売の原動力と思っております。保守的な感情と申しましても「憲法96条を改正したい」とか、そういうことじゃあないんです、勿論。具体的には「正月は家族揃って浅草に初詣に行きたいね」「お参りの後は、すき焼きって我が家は毎年決まってるんだ」というような感覚を「保守的」と言ったわけです。そこに弊店が上手く嵌っていくことが、他の何より大事と思っています。

ところが、です、私はそう願っているんですが、ある年の暮に、ある御家族のお嬢さんが色気づきまして、お父さん、芸能人は正月はハワイに行くのよ、私もハワイに行ってみたい!と言い出しました。何言ってるんだ、お爺さんもお婆さんも、オマエとすき焼きを食べるのを楽しみにしてるんだぞ!えーやだー、浅草とかすき焼きとか、私、前からダサいと思ってたのよ。それに私、英語を勉強したいの!そう言われてお父さん、そうか、英語も習わせないとなあ、ということで、この一家はハワイへゴー、憐れ、お爺さんとお婆さんだけが浅草へ行きました。行きはしたものの、オイ婆さん、オマエと二人ですき焼きじゃあツマラナいなあ。何よ、お爺さん、アタシだってアナタとじゃあツマラナいわよ、今日は帰りましょう!あららら~っていうことにならないようにするのが、浅草のすき焼き屋の、最も大事な仕事です。私は、そう確信しまして、この10年ほど御家族づれ、それも3世代・4世代で「ちんや」へ来ていただくことに努力を集中して参りました。まず弊社の経営理念は「心に残る思い出を!」という文言にしました。弊社は「すき焼きを売るのではく思い出を売る」という次第です。勿論パクりの理念ですけどね、 not computer,but utility の。

具体的には例えば、ですが、「記念日割引」という制度を作りまして、その日は割引率が倍になるんですが、お客様が自分の好きな日を登録できる、というのがミソです。勿論自分の誕生日を登録してもOKなのですが、むしろ多いのは奥様の誕生日とか、結婚記念日とか、お孫さんの誕生日、あるいはご先祖の命日もあります。不祝儀でも良いんです。会社をやっている人は創業記念日を登録して社員さんを連れて見える、というようなパターンがあります。傾向を見ておりますと、男性は結婚記念日を登録なさることが多いですが、女性は自分の誕生日です、ゼッタイに。恐ろしいことですね、はい。

え~何でしたっけ?そう、そう、「記念日割引」という制度の話しですが、この制度の良い点は、どういう理由でお客様が見えたのかハッキリすることです。割引と申しますものは、要求されるとイヤなものですが、記念日割引は「されて嬉しい」割引なんですね。そしておめでたい日であれば、おめでたい趣向でサプライズのサービスが出来ます。そのやり方は、のちほどお話ししようと思いますが、とにかく、個々のお客様の記念日を店が知っている、ということが大事だと思います。何故なら、生活不要品であるすき焼きを、人生の必需品にしたいからです。こうした努力をしつこく続けて行けば、浅草のすき焼きを、その方の人生における必需品に入れていただくことも可能ではないか、イヤ絶対に可能だと確信しております。 

さきほど、記念日の、サプライズのサービスのやり方を「後でお話しします」と言いましたので、次にお話しをしましょう。実は『牛っとハート』という商品名を、商標登録出願中です。商品名と言っても、「ちんや」の、ハート型の牛脂の名前です。すき焼きを始める最初の所で鉄鍋に敷く、あの脂のことです。それに『牛っとハート』という名前を、「ちんや」の社員が命名しまして、商標登録出願中です。

この牛脂をですね、記念日割引のすき焼きに、ご利用いただきたいと思っています。お誕生日に、ご結婚記念日に、還暦・古希のお祝にご利用いただきたいと思っています。不祝儀でも結構なんです、故人様のご命日にもご利用いただきたいと思います。売店でのお買い上げの場合でも差し上げます。この牛脂を使おうと考えた理由ですが、FBやツイッターにUPしていただける、ということも勿論あります。ここは、SNS社会ですので、今後は非常に大事です。しかし、さらに大事な理由があります。なんでしょう、ご説明しますが、日頃、大切な記念日の食事でも、そのことを店のスタッフには知らせない方が大勢おいでです。まあ、他人に知られたくない気持ちは分かります。でも、店の人間は知らせて欲しいんですよね。この「牛っとハート」が欲しいが為に、「実は、今日がカノジョとの「おつきあい1周年」なんです・・・」とか教えてくれたら嬉しく、在り難く思いますよね。そう、この牛脂を使う、本当の目的は、働く者のモチベーション向上です。そう位置づけています。

実は牛脂をハート型に成型する技術自体は、そんなに難しいことではありません。以前にも誰かがやっていたかもしれません。しかし私ほど、このハート型牛脂に執着して、商いの根幹に据えようと考えた者はいないと思います。すき焼きという料理は、人のハートと人のハートが触れ合う席で食べる料理で在って欲しい、そういう私の心底からの願いを、この商標が象徴しています。だから、以前に試した誰かと私を区別したいです。区別するためには、①名前を付けること、②その名前を天下に公表することが必要だと考えました。で、商標登録なのです。この話しを聞いて「下らない!」と感じた方もおいででしょう。しかし、私はこういうことが大事だと断言いたします。何故なら、すき焼きという商品は売り易くない、しかしすき焼きの思い出という商品は結構、売り易い、からであります。この牛脂を今日も使ってたべていただきます。その「牛っとハート」をこれからお出しします。誰か一人でも、今日は誕生日とかなんかの記念日、という人がおいでだと良いんですけど、いませんか?いませんか。まあ、良いでしょう。

実際の問題としては、お客様にリピートしていただく、それも10年に30回、20年に60回、30年に90回といったペースでリピートをしていただく、ということを目指しております。浅草はそれが可能なんです。浅草と上野の間には寺町があってお墓がありますから、そこへ正月、春のお彼岸、お盆、秋のお彼岸と多くのご家族が通って来ます。春には墨堤の桜が咲きます。是非ともそういう機会にリピートをしていただきたいと思っています。30年の間にはお爺さんが亡くなるかもしれません。しかしリピートは終わりません。30年の間に、お孫さんが成長して結婚して⇒そこにお子さんが生まれて、つまりかつてのお父さんがお爺さんの位置に上がりまして、新たな3世代が揃って「ちんや」へ来て下さいます。人間の個体の単位で考えれば、お爺さんは死んじゃったんですから二度とリピートできませんが、家族単位ではリピートできるんです。生まれたお子さんにモノ心がついたら、今度のお爺さんつまりかつてのお父さんから聞かされるでしょう、オマエの曾爺さんの代から、ウチの家族はこの店に来てるんだぞ!って。それが弊店の理想形であります。すき焼きという料理は、そういう料理であるべきだ、と私は信じておりますので、だからこそ、「ちんや」の肉は、モタレてはいけない、と思うのです。

なるほど!では、そのモタレない肉ってどうやって作るんですか?!という話しを、いよいよお教えしますが、「モタレない」とは、どういう状態のことを言うのでしょう。

二つ条件があります・・・

① 肉の中にアミノ酸が多いこと

② 脂肪の融点が低いこと

分かりにくいと思いますので、非常にザックリとお話ししますね。

肉を熟成させると、肉の中のタンパク質がアミノ酸に変わります。分子が小さくなるのです。分子が小さいので、消化しやすく、そしてアミノ酸は旨みの元でもありますので、味も旨いのです。食べものの世界では、一般に分子の大きいものは美味しくなく、小さいのが美味しいのです、ザックリですが。

アミノ酸を作るのは牛の体内の酵素です。その働きで自然に置いておくだけで、そうなります。もっとも「自然」と申しましても0℃~2℃です。常温で置いておけば、熟成は速く進みますが、品質がいたんでしまいます。だから冷蔵するわけですが、冷蔵すると望ましい熟成度合に成るまで、およそ一か月を要します。

そう、皆さんが今日召し上がる肉は、一か月前に亡くなった牛の肉なのです。ここがスーパーの肉と「ちんや」の肉が大きく違う所です。

スーパーの肉は一か月ではなく、4~5日目に売られています。商品回転率を高めたいから、そうしているのですが、それでは旨くもなく、かつモタレます。赤身ならモタレない、と思っておいでの方が多いですが、違いますので御注意下さい。今日は、その違いを体感していただきます。

もう一つの条件「脂肪の融点」についてもお話ししましょう。牛の脂肪の融点は、他の動物の肉の融点より、一般に高いです。だからモタレるのです。しかし、どの牛も同じなのではなく、育て方によって、融点が低い脂肪にすることが出来るのです。本日出される牛の脂肪は、部屋の温度で置いておくと、だんだん融けてきますが、それが望ましいのです。それが消化しやすい脂肪です。外見上脂が少ない肉でも、融点が高ければモタレますので、ご注意願います。さて、その脂肪の融点を、牛を屠殺した後に我々が変えることは出来ないので、肉屋の仕事としては、脂肪の融けが良い牛を選ぶことが大事です。選ぶことつまり所謂「目利き」です。

そして「ちんや」の職人は、一瞬指で肉を触るだけで、その「目利き」をすることができるのです。脂肪内部の飽和脂肪酸と不飽和脂肪酸の比率が変わると、融点も変わるのですが、そんなことを、分析器で測定していたら時間がかかって仕方ないです。

一方「ちんや」の職人は、一瞬触るだけで「目利き」できます。そうできるのは、職人としてキャリアを形成してきた、長い人生の時間が指に乗っているからです。

以前、陶芸の人間国宝・浜田庄司先生は、たった15秒で、大きな器に釉薬を流し掛けました。そして、そのことを「15秒プラス60年」という、有名な言葉で表現しました。

15秒とは実際に釉薬を流し掛ける時間、そして60年とは陶芸家としての鍛錬のために費やした長い歳月を意味していました。同じことが肉の職人にも言えると思います。

・熟成に一か月

・脂肪の目利きに「15秒プラス30(60)年」

①旨くて②モタレない肉を提供するため、これだけの時間がかかります。しかし時間をかける価値はあります。「思い出を作るすき焼き店」~特に御家族の思い出を作る店

しかも、何世代にも渡って、「思い出を作るすき焼き店」そう在り続けたいと思えば、時間をかける価値があります。ローマは一日にして成らず、と申しますが、旨い肉も一日にして成らず、なわけです。以上は肉に関する考え方の御説明でした。

さて、「観光」とか「ガイド」ということについて、今回のご依頼があってから、私も久しぶりにつらつら考えてみましたので、最後にその話しもしておこうかなと存じます。

ここはボヤキです。さて「東京観光」、ですが、未だ黎明期と言えると思います。東京都が観光誘致に力を入れ始めたのは、ごく最近のことです。まず2002年の、サッカーのワールドカップ日韓共催の時に、受け入れ体制の不充分さが指摘され、2003年東京観光財団設立。やがて国全体でも2006 年に「観光立国推進基本法」が制定されました。力を入れ出したのは、その辺りからです。TCGCさんがNPO法人の認可を獲ったのも2007年とお聞きしております。

その後スカイツリー開業やオリンピック招致やらで勢いを増していますが、「東京観光」は未だ黎明期を抜けていないと思います。もう少し平たく・分かりやすく申せば、「遅れている」のです、東京観光は。

他の観光地で以前から指摘され続けている、「マス・ツーリズムの弊害」が、今東京観光に該当している、と断言しましょう。弊害ツーリズムの行先が東京に代わっただけです、ハッキリ申して。だいたい、「旅行業」って、なんであんなに不勉強でも開業できるんでしょうか。

しかしそれなのに、何しろ大量の送客をしてくる取引先なので、地元受け入れ業者の皆さんが、あの連中の都合に合わせてしまいがちです。嘆かわしいです。極端な短時間で客に食事をさせようとする業者が実に多いです。1卓にビールを3本ずつ、事前に栓を抜いて置いておけ、とか言って来る輩も多数。麦を育てている生産者の方のことを、少しでも考えたことがあるんでしょうか。それを弊店が拒否すると、すぐさま紛争の種と成りますので、私がいちいち交渉に乗り出すハメになります。ああ、メンド臭。でも、いつでも絶対妥協せず、そういうことでしたら、今からでも御予定を変えていただいて、余所の御店にいらしていただいて結構ですよ!浅草には良い御店がいっぱい在りますからね!と脅迫致します。旅行の前日の話しですから、困るのは先方ですからね。だってですよ、お客様の楽しみが優先ですからね。そういう言い分を、私は聞きません。この現象は「マス・ツーリズムがもたらす観光地の疲弊」と説明されるようです。曰く、「多量に観光客をさばくには、必然的に専門的事業者たる旅行代理店等を介在する必要がある。」「送客側の立場が相対的に強くなり、その要求に合わせた設備投資や手数料の支払い・販売促進協力金負担などの商慣行から、観光地の事業者の疲弊が見られる。」とも説明されるようです。

誰が本当の御客様で、何が御客様の本当の楽しみなのか、考えないからそう成るんです。

さらに申せば、ネットの普及によって、「ネット受けの良い」事業者だけが流行る現象も起きていますね。そんな御時世ですから、私は大いに期待してます、ボランティアガイドの皆さんに。ご活躍いただきたく、お願いを申しておきます。

本日はありがとうございました。

<やっと終わりました。お疲れ様でした、ヒマな皆さん>

追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は361人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.245日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。