老舗の生き抜き方⑧

 福島県酒造組合さんが運営する学校「県清酒アカデミー」で1時間ほどの講演をすることになりました。

 震災以来応援している「福島の酒」ですし、聞き手は醸造を志している若い方ばかりだそうですので、一生懸命お話ししてきたいと思っています。

 その原稿が準備できましたので、弊ブログでも公開して行きたいと思います。長いので8回に分けてUPしています。

 御題は、老舗の生き抜き方というものをお話しせよ、ということしたので、そういう方面の話しをさせていただきます。

 本来自分で「老舗」と自称するのは僭越な話しではあるのですが、他に適当な日本語がありませんので、使うことにいたしまして、つまりは浅草の、すき焼き屋ですとか、天麩羅屋ですとか、鰻屋ですとか、蕎麦屋ですとか、そういう仕事を永年して来た店が、時代の変化や危機をどのように乗り切ってきたか、をお話ししてみたいと思います。

 本日は、ついにその第8回です。おつきあいいただけましたら、幸いです。

<以下講話本文>

(店にとっての、本当の財産とは)

 さて、私どもの話しばかりいたしましたが、御酒に関しても、事例をあげてみましょう。かなりイヤな事例かもしれませんが、一つあげてみます。

 福島第一原発が起動した時に、目出度いですから、技術者の皆さんが乾杯しますね、。何で乾杯したか、ニュースフィルムを視た方はいますか。私は視ましたが、日本酒でした、ビールじゃなくて。アメリカから派遣されて来た人も、結構おおぶりの白磁の猪口を手にして乾杯していました。

 酒がどこなのか、わかりません、地元の鈴木さんなのか、会津なのか、はたまた国家プロジェクトでしたから灘から運ばせたかもしれませんが、なにしろ日本酒でした。

 ここで申し上げたいのは、原発稼働の是非の話では勿論なくて、ブランド・ロイヤリテイーの話しです。

 この日の乾杯は、工事に関わった皆さんにとっては、人生に何度とない、栄光の瞬間・勝利の瞬間です。この日の酒の旨さは一生忘れられないでしょう。ですので多分、自分は「酒と言えば誰が何と言おうと、この銘柄なんだ!」と決めつけて、一生変えないでしょう。この位その方の人生と関わりを持てば、ここで客と酒の間に絆が生まれた、と言っても良いと思います。

 ここで話しはやっと技術の話しになります。そうしたお目出度い乾杯に使う酒、として相応しい酒質の酒を造ること、それを全ての仕事の入口にしていただきたいと思います。

 今時は酒造りだけでなくて、会社全体としての姿勢を見られている可能性もありますね。ですから、酒造りプラス会社造りです。

 私がやめていただきたい、と思いますのは、全ての入口を技術に置くことです。技術の追求はキリがないですし、しかも皆が競争心を持っていますから、技術競争だけがエスカレートすると大変です。

 技術競争は勿論やっていただきたいのですが、是非是非想像力を働かせて、あなたが造った酒を噛みしめて飲む人の姿をイメージしながら、競争していただきたい、そう思います。

 私の店でも近年料理のレベルを上げて参りましたが、そのやり方は、下のレベルのものをだんだん廃止して行きました。まず下を切って、次に上を上げ、次はまた下を切る、という段取りですね。上をグイッと上げても、下がそのままですと、御客様は混乱しますから、結局良いものが売れていきません。そこはお気をつけいただきたいと思います。

 さて、さっきの事例は不愉快であったかもしれませんので、もう一つ事例をあげましょう。拝見しますると、皆さん、お若いですね。これからカノジョが出来、二人の間に信頼関係が出来て、さあ結婚という話しに成り、プロポーズをしてOKしてもらったら、嬉しいですね。

 嬉しかったら、どうしますか。酒を飲みますね。どういう酒を飲みますか。皆さんなら、自分の蔵から、とっておきのを出してもらって飲むでしょうね。当然、一生で一番美味いと思います。

 では、皆さんの友達はどうでしょうか。高校の陸上部で一緒だったアイツから、久しぶりに電話があって、どうしたのかと思ったら、プロポーズをしてOKもらって嬉しくて酒飲んでるんだ、酔っ払って電話して悪いな!と言ってます。

 いいんだ、いいんだ、そういうことなら構わないさ!おめでとう!

 で、ところでさあ、酒は何を飲んでるの?

 そりゃあ、モエ・シャンドンだよ!

ってなことにならないようにするのが、皆さんのこれからの御仕事であり、これからの人生ではないのか、ということを指摘させていただきました所で、お後がよろしいようですから、この話しを終わらせていただきます。

 御参考になりましたなら嬉しいです。

 本当に有り難うございました。

<この話しは、長いので8回に分けてUPしてきました。これにて終わりです。ご愛読ありがとうございました。>

追伸①

 藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に載せていただきました。
 不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

 他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

 是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
 ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸②

 「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は270人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 参加者の方には、特典も! 

 皆様も、是非御参加下さい!

追伸③

 「朝顔市」は入谷の鬼子母神にて、7/6-7/8開催済み。

 「ほおずき市」は浅草寺にて、7/9-7/10開催中です。

 お間違えのないよう御注意下さい。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて863日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています

老舗の生き抜き方⑦

 福島県酒造組合さんが運営する学校「県清酒アカデミー」で1時間ほどの講演をすることになりました。

 震災以来応援している「福島の酒」ですし、聞き手は醸造を志している若い方ばかりだそうですので、一生懸命お話ししてきたいと思っています。

 その原稿が準備できましたので、弊ブログでも公開して行きたいと思います。長いので8回に分けてUPしています。

 御題は、老舗の生き抜き方というものをお話しせよ、ということしたので、そういう方面の話しをさせていただきます。

 本来自分で「老舗」と自称するのは僭越な話しではあるのですが、他に適当な日本語がありませんので、使うことにいたしまして、つまりは浅草の、すき焼き屋ですとか、天麩羅屋ですとか、鰻屋ですとか、蕎麦屋ですとか、そういう仕事を永年して来た店が、時代の変化や危機をどのように乗り切ってきたか、をお話ししてみたいと思います。

 本日は、その第7回です。おつきあいいただけましたら、幸いです。

<以下講話本文>

(店にとっての、本当の財産とは)

 さて、チトぼやきが入ってきてしまったので、話しをブランド・ロイヤリテイーの話しに戻します。

 そうした御客様との絆は、日頃どうしたら出来ていくのでしょう。さきほど御客様の人生の喜びや場合によっては悲しみに、その店が関わった時に、初めてつながりができます、と申しました。

 一つ事例をあげます。実は、私の知人に、とある酒蔵の若旦那さんがいまして、その彼が今年全国新酒鑑評会で金賞を獲りました。今まで普通酒中心の蔵だったのですが、山田錦の生産者の方との出会いがあって、今年ついに金賞に入りました。

 そのお祝いの会が先週手前どもの店でありました。そういう、人生に何度とない目出度い瞬間にお使い下さるわけですから、きっと彼は手前どもの店に対してロイヤリテイーを感じて下さり、今後も何かの機会で使っていただけると思うのですが、問題は、そういうお目出度さに、手前どものスタッフが、心底共感して、その場に臨んでくれるか、です。そこが鍵だと思っています。

 つまり問題は蔵元の息子でもない人が、金賞受賞の気持ちなんてわかるか、という点ですね、要するに。どうでしょう。結論から申しますと、分からないといけませんし、分かります。私の経営の方面の師匠の二条彪先生は「経営者は小説を読め」とおっしゃいます。人の気持ちをわかれるようになるためです。まさに、その通りでありまして、人間は想像ということができるのです。

 私個人は、この教えを少し変形して、芝居のようなものかな、と思っています。1958年に、さきほどご紹介した淡島堂が役割を終え、浅草寺本堂落慶を迎えた日の、浅草の人の喜びを、私は想像することが出来ます。だから弊店のスタッフも、俳優さんのように、自分が金賞を獲った場面を想像することが出来るはずです。是非そうして欲しい、と思っています。

 話しは多少逸れますが、ちょっと思い出していただきたいのですが、地震の後に、家族の絆・友人の絆・地域社会の絆というものが語られることが多いと思いますが、店と客の絆は、ほとんど語られませんね。皆さんも御商売の方ですが、残念じゃありませんか?

 だいたい「地域社会の絆」とか申しますが、その主役は、街の酒屋さんや、米屋さん、肉屋さんや、八百屋さん、魚屋さん、それから味噌屋さん、豆腐屋さんですよね。商売をする中で、住民の顔と名前を覚え、性格や家庭状況を覚えている人が地域の主役です。

 でも、商売している=営利企業=儲けているという、枠組みの中に居るので、絆話しには成りにくいんだと思います。

 これは実に残念な話しでして、実際問題、〇〇屋の皆さんは、知り合い相手の商売ですから、大して儲けてはおらず、所謂「三方良し」の関係の御店ばかりと思います。ですので、店と客の間にも、損得だけで無い一段上の、信頼関係を作ることは、必ず出来る話しだと思って続けています。

 そう考えて、さきほど紹介しました「すき焼き思い出ストーリー」とか「すき焼き川柳onツイッター」とか「記念日割引」とか、ネットを使って、いろいろやって参ったのですが、地震の後に、店と客の絆のことが、ほとんど語られないのを視まして、これは残念だ、もう一段頑張ろう!と思って始めましたのが、この「1千人の笑顔計画」であります。画面をご覧下さい。 

 このプロジェクトは、ややこしい所は一つもありません。まず「ちんや」で、東北の牛を食べていただき、食後に飛びっきりの笑顔を撮影させていただき、その笑顔画像を「ちんや」のサイトにUPします。また、その御客様が「ちんや」においでの間にプリントアウトも致しまして、その紙焼き写真を、次回持って来ていただくと、そのままクーポンに成って優待がある、という簡単なシステムです。現在の参加者の数は262人でして、それを1千人まで続けよう、という試みです。

 この企画は勿論、大震災という事態を受けまして、東北で牛を飼っている人達のためにやっているわけですが、それだけではありません。先ほど来申しておりますように、手前ども「ちんや」と御客様の間にも、損得勘定だけでない、もう一段の関係を作って行きたい、そういう願いも込めて推進しています。

 ポイントは写真のクーポンです。このクーポンは、我々サイドからしますと、優待させられて嬉しいクーポンです。普通のクーポンは優待させられて腹立たしいですから、違います。嬉しいという感情が産まれるところが、かなり違うと思います。

 こうした企画の中で、ネットは当然使いますが、今の世の中に「追いついて行く」「対応する」だけでは寂しいですね。「未来の歴史を作る」~今やっているのは、そういう作業なんだ、という認識を持つことが大事だと思います。

 25年後とか50年後から今を見れば、今は歴史ですね。そういう見方をしたときに、今やるべきこととは何なんだ?それを実行したい!私は、そう思わずにおれません。

 想像力があれば、たぶん出来ることです。50年後の自社を想像してみてみましょう。そして、2062年から見て、あの2011年に、あの2012年に、ああいうことをやっておいて良かった、後からそう言ってもらえるかどうか、それを今日の仕事の基準にするべきだ、そう思い詰めています。

 「時代に対応するには、時代に対応してるだけではNG」なんです。本日は、そう指摘させていただきます。

 さて、私どもの話しばかりいたしましたが、御酒に関しても、事例をあげてみましょう。かなりイヤな事例かもしれませんが、一つあげてみます。

<この話しは、長いので8回に分けてUPします。本日は、その第7回でした。>

追伸①

 藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に載せていただきました。
 不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

 他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

 是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
 ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸②

 「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は270人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 参加者の方には、特典も! 

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて862日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

老舗の生き抜き方⑥

 福島県酒造組合さんが運営する学校「県清酒アカデミー」で1時間ほどの講演をすることになりました。

 震災以来応援している「福島の酒」ですし、聞き手は醸造を志している若い方ばかりだそうですので、一生懸命お話ししてきたいと思っています。

 その原稿が準備できましたので、弊ブログでも公開して行きたいと思います。長いので8回に分けてUPしています。

 御題は、老舗の生き抜き方というものをお話しせよ、ということしたので、そういう方面の話しをさせていただきます。

 本来自分で「老舗」と自称するのは僭越な話しではあるのですが、他に適当な日本語がありませんので、使うことにいたしまして、つまりは浅草の、すき焼き屋ですとか、天麩羅屋ですとか、鰻屋ですとか、蕎麦屋ですとか、そういう仕事を永年して来た店が、時代の変化や危機をどのように乗り切ってきたか、をお話ししてみたいと思います。

 本日は、その第6回です。おつきあいいただけましたら、幸いです。

<以下講話本文>

(時代に対応するだけではなくて~未来の歴史を創る)

 やはり時代の変化に対応することは大事です。

 浅草は戦後の復興に当たって、「テレビの時代」が到来したことに対応しなかったため、最近までかなり長期の衰退期を経験しました。

 戦後人々は、もう一度芸能の殿堂・娯楽の殿堂を再建しようとしますが、それを果たせない内、時代が変わってしまいました。昭和30年代辺りから、浅草は寂れ始めます。テレビ時代を迎えているのに、まだ昔の浅草を追いかけていたから、です。

 私が子供の頃の話しですが、非常に苦しい時代がありました。「再建」「復興」では×で、新しい時代を創らないといけなかったわけです。そのことは、今日是非お伝えしておきたいと思います。

 衰退した説明として、①テレビと②東京の城南方向への拡大が挙げられています。戦後の若者のカルチャーは、浅草のような古い土地でなく、新宿・渋谷・六本木など城南方面の新鮮な繁華街で育ちましたので、テレビのせいでエンタメ産業が打撃を受けたのと合わせて、浅草は急激な地盤沈下の時代を迎えました。  

 この時代のことを思い返してみますと、私の直感では、①②の説明以上になんか、もっと加速度的に「場末化」した感覚がありました。貧すれば鈍するで、苦し紛れに馬券売り場を誘致したのも失敗でした。「ウインズ浅草」が出来た六区は、競馬目当ての客のみが集中する光景となりました。場末っぽい雰囲気が漂い、夜間は7時になると人通りも疎らになってしまう始末でした。私が子供の頃です。

 一度トップに昇って、その後でトップの座が揺らぐとかなりキビしい、そんな感じがですね、感覚だけで言って申し訳ないですが、いたします。時代に対応しないとダメですよ、ということと、もう1点、トップからいったん落ちますと、かなり苦しい思いをすることになりますよ、ということの2点を、ここで皆さんにお話ししておきたいと思います。

 ついでに現在の話しをいたしますと、浅草が「芸能の殿堂」「娯楽の殿堂」の地位に戻れていない、という意味では同じ状況です。今浅草は再生した、とは言いつつも、日本一の盛り場だった頃とは違って国際観光地としての再生です。たしかに再生は果たしましたが、問題は在ると、私は思っています。

 だって観光ってのは、しょせんは「スポット見物」で、名物・名所以外にお金の波及が少ないです。今は、あいかわらずのデフレの状況ですからね、ハッキリ申して。御客様は、ごく有名な限られたものにしか、お金を使われない、という状態がスカイツリーが出来ても続いています。本当に心から価値を感じるものにしかお金を使わない、単に美味いだけではダメ、というのが実際の現実であります。

 さて、チトぼやきが入ってきてしまったので、話しをブランド・ロイヤリテイーの話しに戻します・・・

<この話しは、長いので8回に分けてUPします。本日は、その第6回でした。>

追伸①

 藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に載せていただきました。
 不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

 他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

 是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
 ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸②

 「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は270人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 参加者の方には、特典も! 

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて861日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

老舗の生き抜き方⑤

福島県酒造組合さんが運営する学校「県清酒アカデミー」で1時間ほどの講演をすることになりました。

 震災以来応援している「福島の酒」ですし、聞き手は醸造を志している若い方ばかりだそうですので、一生懸命お話ししてきたいと思っています。

 その原稿が準備できましたので、弊ブログでも公開して行きたいと思います。長いので8回に分けてUPしています。

 御題は、老舗の生き抜き方というものをお話しせよ、ということしたので、そういう方面の話しをさせていただきます。

 本来自分で「老舗」と自称するのは僭越な話しではあるのですが、他に適当な日本語がありませんので、使うことにいたしまして、つまりは浅草の、すき焼き屋ですとか、天麩羅屋ですとか、鰻屋ですとか、蕎麦屋ですとか、そういう仕事を永年して来た店が、時代の変化や危機をどのように乗り切ってきたか、をお話ししてみたいと思います。

 本日は、その第5回です。おつきあいいただけましたら、幸いです。

<以下講話本文>

(時代に対応するだけではなくて~未来の歴史を創る)

 御客様とのつながりを引き継ぐために、私の代になって、始めたことをいくつか紹介してみたいと思います。画面をご覧くださいね。

①番目は、すき焼き思い出ストーリー投稿サイトです。たくさんのご家族がすき焼きにまつわる思い出をお持ちだと思うのですが、それをいちいち文章に起こさないですよね。でも文章にしないと消えちゃいます。だからネットを通じて発表していただくことにしました。是非後で観て下さい。

②番目は、すき焼き川柳オン・ツイッターです。これは①の変形です。散文より川柳が得意な人が多いですのでね。それとツイッターを絡めました。

③番目は、記念日割引です。誕生日割引は、いろんなレストランでやっていますが、「ちんや」の場合は、御客様が自由に日を指定できることです。先ほど申しましたようにご法事も多いですので、目出度いばかりが記念日ではなく、不祝儀の日でも指定できます。店のスタッフの側が割引されて嬉しい割引、というのは珍しいと思います。

④番目は、すき焼き通検定試験です。これはクセ玉です。すき焼きの薀蓄を勉強して、合格して下さった方は、もう御客様というより、一種の仲間として優待して行こう、という考えです。

⑤番目はニコニコBOXで、これは社内向けです。仕事している最中に御客様から聞いた、すき焼きに関する感動話しを報告させ、そのたびに貯金して、親睦会の会費の足しにする、というものです。

 集めてみると、実に有り難い話しがたくさん聞けまして、ああ、いままで、こういう話しが記録されずに、右から左へ消えていたんだなあ、実に勿体無いことをしていたもんだ、と感じました。さらに、ここで集めた話は、ネットにも出して行きます。

 ニコニコBOXでは例えば、脳の重篤な病気をされた方が、ご闘病中、なんとか直して旨いものを食べたい、病院から出たら、ちんやのすき焼きを食べたい、と思って下さっていた、というような話しもありまして、こういう話しを聞くと、心底この仕事をますます頑張らねば、と思います。こういう話しこそが、まさに店の財産です。

 経理上は、金や建物が「財産」ですが、本当の財産とは、こういう話しと思っています。そう思う理由は、勿論、余計な説明抜きで、この仕事に取り組む意義を分からせてくれるからです。

 ここで今の例の、かなりの部分がネットに関係していることにご注目いただきたいと思います。恥ずかしながらブログもやっておりまして、ただ今860日連続更新を続けております。やはり時代の変化に対応することは大事です。

 浅草は戦後の復興に当たって、「テレビの時代」が到来したことに対応しなかったため、最近までかなり長期の衰退期を経験しました・・・

<この話しは、長いので8回に分けてUPします。本日は、その第5回でした。>

追伸①

 藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に載せていただきました。
 不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

 他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

 是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
 ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸②

 「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は270人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 参加者の方には、特典も! 

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて860日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

老舗の生き抜き方④

 福島県酒造組合さんが運営する学校「県清酒アカデミー」で1時間ほどの講演をすることになりました。

 震災以来応援している「福島の酒」ですし、聞き手は醸造を志している若い方ばかりだそうですので、一生懸命お話ししてきたいと思っています。

 その原稿が準備できましたので、弊ブログでも公開して行きたいと思います。長いので8回に分けてUPしています。

 御題は、老舗の生き抜き方というものをお話しせよ、ということしたので、そういう方面の話しをさせていただきます。

 本来自分で「老舗」と自称するのは僭越な話しではあるのですが、他に適当な日本語がありませんので、使うことにいたしまして、つまりは浅草の、すき焼き屋ですとか、天麩羅屋ですとか、鰻屋ですとか、蕎麦屋ですとか、そういう仕事を永年して来た店が、時代の変化や危機をどのように乗り切ってきたか、をお話ししてみたいと思います。

 本日は、その第4回です。おつきあいいただけましたら、幸いです。

<以下講話本文>

(被災の経験から)

 こ​の時代、浅草の家で、身内に一人も死人が出なかった家は​珍しかったのです。それでも所謂「老舗」企業は継続して来たわけで、それは人々​が、丸焼けの状態からの復興を果たして来たからです。

 こうした被災の経験から学ぶことが出来るのは、「本当の資産と​は、金でも建物でもない」ということです。それは、第一​には働く者の心と智恵であり、また第二には店の再開を望​んで下さる御客様とつながりです。だって、そもそも金は天下のまわりもの、ですし、建物だって爆撃されれば、跡形無くなってしまいますからね。

 特に重要なのは2番目の、御客様とのつながりだと思います。

 それなりの会社であれば、それなりの人材を揃えているでしょうから、被災しても金策さえつけば、表面上の再建はできましょう。

 問題は、その後です。「是非店を再開して下さい。必ず食べに行きます。」という御客様が、どれだけいるか、が問題です。御客様自身も被災していて苦しいわけですから、下手に金など使いたくないはずです。それでも、その特定の店に行きたい、というほどの強い気持ち・つながり=絆と言って良いのかもしれませんが、そのつながりが店と客の間に出来ているかどうか、被災した時・危機の時には、それが明らかになります。

 ニュアンスがかなり違うかもしれませんが、横文字で「ブランド・ロイヤリテイー」という言葉がありますね。その究極の形が、これだと思っています。2度の被災を乗り越えた浅草の御店には、それが備わっていたはずだと思っています。

 そのことは、私も分かっているつもりではありましたが、本当の意味で心底得心しましたのは、さきほど申したましように、今回の震災後に淡島堂の前を通った時でした。ですので、皆さんの前で偉そうなことを言える立場ではないのですが、今日のところは大正・昭和の浅草人の、私が代理なのだと思って聞いていただければ有り難いです。

 では、そうした絆は、いつどのように出来るのでしょう。それは当然、御客様の人生に、その店が強く関わりを持った時にしか出来ませんね。その方の人生の喜びや場合によっては悲しみに、その店が関わった時に、初めてつながりができます。

 例えば、死んだお爺ちゃんの法事で親戚が集まった後の食事はどうしますか。お爺ちゃんが生前好きだった店、お爺ちゃんが連れて行ってくれた店で食事しませんか。当然です。

 だから「ちんや」では、生臭の食べ物なのに、戦後のある時期まで、とても御法事が多かったそうです。しかも3月と9月に多かったそうです。なぜでしょう。大空襲が3/10で大震災が9/1だったからです。忙しく悲しいとは、珍しい状況です。

 そうしたつながりを、今私達は、さらに強くして、また再生産しないといけません。再生産と申しますのは、お爺ちゃまとのつながりを御子様もへ、御子様とのつながりをお孫さんへも、ということです。

 そのように2世代・3世代に渡ってつながりのある御客様が出来て初めて、その店は「老舗」と呼ばれて良いのだろう、と思っています。あくまで自称ではなく、人様から、ですが。

 御客様とのつながりを引き継ぐために、私の代になって、始めたことをいくつか紹介してみたいと思います。画面をご覧くださいね・・・

<この話しは、長いので8回に分けてUPします。本日は、その第4回でした。>

追伸①

 藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に載せていただきました。
 不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

 他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

 是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
 ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸②

 「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は270人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 参加者の方には、特典も! 

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて859日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

老舗の生き抜き方③

 福島県酒造組合さんが運営する学校「県清酒アカデミー」で1時間ほどの講演をすることになりました。

 震災以来応援している「福島の酒」ですし、聞き手は醸造を志している若い方ばかりだそうですので、一生懸命お話ししてきたいと思っています。

 その原稿が準備できましたので、弊ブログでも公開して行きたいと思います。長いので8回に分けてUPしています。

 御題は、老舗の生き抜き方というものをお話しせよ、ということしたので、そういう方面の話しをさせていただきます。

 本来自分で「老舗」と自称するのは僭越な話しではあるのですが、他に適当な日本語がありませんので、使うことにいたしまして、つまりは浅草の、すき焼き屋ですとか、天麩羅屋ですとか、鰻屋ですとか、蕎麦屋ですとか、そういう仕事を永年して来た店が、時代の変化や危機をどのように乗り切ってきたか、をお話ししてみたいと思います。

 本日は、その第3回です。おつきあいいただけましたら、幸いです。

<以下講話本文>

(関東大震災・東京大空襲と浅草)

 そこへ1923年、関東大震災が起こります。

 大火災が発生しまして、特に浅草を含む東京東部は壊滅・ほぼ丸焼けの有り様と成りました。帝都随一の展望台だった「十二階」もあえなく倒壊しました。そして、その震災後の復興キャッチフレーズが、あの有名な

「君よ、散財にためらうことなかれ。君の十銭で浅草が建つ。」です。

そんな看板が立てられたといいます。つまりは経済を止めてしまったら第二の被災になってしまうから、厳しい中でも少額でも消費して、豚カツとかシナ蕎麦とかにお金を使って再建しよう、ということです。

 十銭消費のおかげで、この時は意外な速さで、復興が進められ、昭和も二ケタに入りますと、高見順の小説「如何なる星の下に」に描かれたような興業街が復活します。しかし、もう時代は「国家総動員の時代」ですね。浅草はこの頃、時代にあわせられない人達~たとえば永井荷風や高見順に愛されるようになります。

 反体制と言うと言い過ぎかもしれませんが、そういうイメージの、小さい心の逃げ場として、もうしばらく繁栄を続けていきますが、もう戦争です。

 歴史とは皮肉なもので、総動員されたくない人々が集っていた浅草が、1945年の大空襲で完全に壊滅します。去年の津波の映像も酷かったですが、あれに匹敵する酷さで、全てが焼き尽くされたのが浅草でした。関東大震災でも壊滅しましたので、二度目です。

 ここでレジュメの下に載せた写真を説明をしますね。これは浅草寺の本堂です。現在の本堂では、勿論ないです。戦災から1958年(=昭和33年)まで使われていた仮本堂です。今は「淡島堂」と呼ばれていて浅草寺の境内にありますが、こんな小さな建物です。入口なんか、人間が3~4人しか通れないです。

 こんな小さな建物が13年間も本堂だったのです。二度目の被災ということで、ダメージが大きく、13年も再建できなかったのです。

 13年もかかりましたから、その間に亡くなられた方も少なくなかったと思います。

 今度の震災があって、私は、朝のニュース番組で三陸の御寺や御やしろが壊れているのを見て、その後たまたま「淡島堂」の横を通りかかりました。ああ、今回被災した御寺が再建されるのに何年かかるだろう、それを見ずに死んでしまう人もいるだろう。昭和本堂の完成を見ることのできなかった浅草の人達の悔しい気持ちと同じだなあ、と思いました。

 あの建物を見ていて、心底からそういう感情を持ったのは、私にとっては、これが初めてでした。以上がこの写真の説明です。

 さて、このように浅​草は1923年と1945年の二度丸焼けになっているわ​けで、実は20世紀前半の、最大の被災地とすら言えます。こ​の時代、浅草の家で、身内に一人も死人が出なかった家は​珍しかったのです。それでも所謂「老舗」企業は継続して来たわけで、それは人々​が、丸焼けの状態からの復興を果たして来たからです。

 こうした被災の経験から学ぶことが出来るのは、「本当の資産と​は、金でも建物でもない」ということです。それは、第一​には働く者の心と智恵であり、また第二には店の再開を望​んで下さる御客様とつながりです。だって、そもそも金は天下のまわりもの、ですし、建物だって爆撃されれば、跡形無くなってしまいますからね。

 特に重要なのは2番目の、御客様とのつながりだと思います・・・

<この話しは、長いので8回に分けてUPします。本日は、その第3回でした。>

追伸①

 藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に載せていただきました。
 不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

 他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

 是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
 ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸②

 「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は262人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 参加者の方には、特典も! 

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて858日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

老舗の生き抜き方②

 福島県酒造組合さんが運営する学校「県清酒アカデミー」で1時間ほどの講演をすることになりました。

 震災以来応援している「福島の酒」ですし、聞き手は醸造を志している若い方ばかりだそうですので、一生懸命お話ししてきたいと思っています。

 その原稿が準備できましたので、弊ブログでも公開して行きたいと思います。長いので8回に分けてUPしています。

 御題は、老舗の生き抜き方というものをお話しせよ、ということしたので、そういう方面の話しをさせていただきます。

 本来自分で「老舗」と自称するのは僭越な話しではあるのですが、他に適当な日本語がありませんので、使うことにいたしまして、つまりは浅草の、すき焼き屋ですとか、天麩羅屋ですとか、鰻屋ですとか、蕎麦屋ですとか、そういう仕事を永年して来た店が、時代の変化や危機をどのように乗り切ってきたか、をお話ししてみたいと思います。

 本日は、その第2回です。おつきあいいただけましたら、幸いです。

<以下講話本文>

(予備知識②=明治・大正時代の浅草)

 さて明治時代です。

 この時点で浅草は天下一の盛り場でしたが、明治時代になって、さらに繁栄を謳歌します。キッカケは「公園」の整備に関する、新政府の布告です。明治6年の、この布告によりまして浅草寺境内は「浅草公園」と命名されました。この時決めた「公園」が日本初の「公園」です。

 でも「公園」って聞いて?と思いますよね。浅草って公園ですかねえ。でも「公園」だったんです。

 この当時の日本人は「公園」という言葉を分かっていなかったんです、この頃Parkを訳して造られた新語だったからですね。で、当時はどう解釈されていたのかと申しますと、公けに遊興して良い場所とか、遊園地と考えていたようです。

 もう少し言えば、「公園」即ち盛り場っていう感じです。それで「公園」は、設立の趣旨とは違って、盛り場化する傾向にあったようです。Park本来の、西洋式の正常な発展をとげた公園は、まず上野公園位のものでした。

 「公園」がそうなって行った理由ですが、当時新政府は財政が厳しくてカネがありませんでした。そこで公園経営に必要な経費を稼ぐため、敷地の一部を賃貸しするんですね。それも射的とか、玉突とか、楊弓とか、見世物なんかの店に賃貸ししてしまったのです。

 浅草の場合は、賃貸ししたどころではなく、土地を掘って「ひょうたん池」という池を造り、池の周りを造成して街を用意し、そこを貸し出した、と言いますから、ほとんど不動産屋ですね、新政府は。

 この時に造成された一帯こそ、明治・大正・昭和戦前に日本一の歓楽街と成る浅草公園第六区縮めて「六区」です。

 今でも楽しいショーを見せてくれる「ロック座」がありますが、ロックンロールをやる座じゃないですからね。詳しいことは、女性もおいでなんで割愛しますけどね、六番目の区画だから六区なんです。ご興味のある方は、実地に御検分いただければと思います、はい。

 と、このような次第で、浅草は盛り続けまして、時代が下ると今度は演劇館、活動写真館、「浅草オペラ館」などの上演が連日行われるようになります。浅草は芸能の殿堂、と言われたのが、この時代ですが、その盛り場を政府が作ったっていうところが、歴史のチト思い白いところです。

 そこへ1923年、関東大震災が起こります。

 大火災が発生しまして、特に浅草を含む東京東部は壊滅・ほぼ丸焼けの有り様と成りました。帝都随一の展望台だった「十二階」もあえなく倒壊しました。そして、その震災後の復興キャッチフレーズが、あの有名な

「君よ、散財にためらうことなかれ。君の十銭で浅草が建つ。」です・・・

<この話しは、長いので8回に分けてUPします。本日は、その第2回でした。>

追伸①

 藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に載せていただきました。
 不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

 他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

 是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
 ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸②

 「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は262人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 参加者の方には、特典も! 

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて857日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

老舗の生き抜き方

 福島県酒造組合さんが運営する学校「県清酒アカデミー」で1時間ほどの講演をすることになりました。

 震災以来応援している「福島の酒」ですし、聞き手は醸造を志している若い方ばかりだそうですので、一生懸命お話ししてきたいと思っています。 

 その原稿が準備できましたので、弊ブログで先行公開して行きたいと思います。長いので8回に分けてUPします。本日は、その第一回です。おつきあいいただけましたら、幸いです。

<以下講話本文>

 皆さん、こんにちは。私がすき焼き「ちんや」六代目の住吉史彦です。本日はお招きいただき、有り難うございます。今回福島県酒造組合の新城会長から清酒アカデミーで話しをして欲しい、というお話しがありました時、私「これは必ず行かねばならない!」と思いました。

 その理由は勿論、今晩東山温泉の芸者さんが接待してくれるから、であります。

 「・・・」

 あ、スミマセン、ここは笑っていただくところだったんですけどね、まあ、いいでしょう、早速始めますね、そういう次第で浅草から会津へやって参りました。

 本日は、老舗の生き抜き方というものをお話しせよ、という御題でございますので、そういう方面の話しをさせていただきます。本来自分で「老舗」と自称するのは僭越な話しではあるのですが、他に適当な日本語がありませんので、使うことにいたしまして、つまりは浅草の、すき焼き屋ですとか、天麩羅屋ですとか、鰻屋ですとか、蕎麦屋ですとか、そういう仕事を永年して来た店が、時代の変化や危機をどのように乗り切ってきたか、をお話ししてみたいと思います。御参考になれば嬉しいです。

 さて、この話しをお聞きいただくに当たって、以前の浅草がどれほど繁栄していたか、それから20世紀の前半に、どれだけ手ひどく被災したかを、まずお話ししておきます。それを知っていただかないと、本編の話しにリアリテイーが持てないと思いますので、まずはそこから始めますが、おつきあいいただきたいと存じます。

(予備知識①=江戸時代までの浅草)

 さて浅草という街は、太田道灌が日比谷の辺りに江戸城を築くかなり前から存在していました。浅草寺の縁起によりますと、推古天皇の時代に浅草寺が建てられた、ということになっています。推古天皇と言えば7世紀ですね。

 この話しは歴史としては確認できていませんが、奈良時代に大きな建物があったことは考古学的に確実だそうです。ですので、なにしろ江戸の街が出来る遥か昔から、浅草が在ったのは確実で、つまりは街の成り立ちが違います。この段階では、まだ浅草は浅草寺の門前町という位の街でしたが、そういう街が江戸とは別にあった、ということを、まずはご記憶下さい。

 その浅草の南西に江戸城が出きまして、そこへ今度は徳川幕府がやってきます。話しが長くなるので、細かい話しは割愛しますが、この位置関係が、この後の浅草の歴史を決定づけてきます。

 まず江戸幕府は、浅草と江戸城の間つまり浅草の少し南に米蔵を建設します。武士の給料である米を蓄えるためですね。最初の江戸市街は、現在の千代田区と中央区を合わせた位の広さしかなく、その北の土地は空いていました。

 AKBの秋葉原なんて、文字通り原っぱだったわけです。はい、サシ子さんねえ、残念でしたけどねえ。え~何でしたっけ?

 そうそう、江戸と浅草の間に土地がありまして、なおかつそこは隅田川から荷卸しをしやすい場所でした。今の地名で「蔵前」と言っているところですね。ですので、そこへ蔵を建設したわけです。場所は、お分かりになりますか?都営地下鉄浅草線で、浅草から日本橋方面つまり南方向に乗りますと1個目の駅、それが蔵前です。

 さて、この時イキナリ浅草のすぐ南に大きな大きな経済力がやって来ました。この蔵の米を商う「札差」という商人たちは、大層な金持ちだったと歴史に出てきます。皆さん、歴史にくわしいとこういう時に自慢できますね。

 やがて幕府は浅草の北方の田圃の中に吉原を造営しました。公認の遊郭ですね。遊郭は風紀を乱すので、江戸市街から追放して、鬼門である北の方へ、ということです。北の皆さんには申し訳ないですけどね。

 そして続いてさらに、浅草と吉原の間に歌舞伎町を建設しました。歌舞伎町って言っても、キャバクラやお姐の店が在る街じゃないですからね、「暫」とか「助六」とか、そういうお芝居を演る街です。当時の歌舞伎は芸術ではありませんで、ショー・ビジネスでしたから風紀を乱しますね、それで江戸の中心からどけたわけです。 

 この場所に今行ってみますと、吉原は戦後に売春禁止になりましたので、ソープ街に変わっていまして、かつての文化度はありませんね。かつての吉原は、当時の工芸美術・服飾美術の粋を凝らしたものだったわけですから、現状はやはり残念としか申す他ありません。

 歌舞伎座のあった所はごく普通の街になっています。明治時代に銀座へ移転したからですが、まあ、そういうことは後の話しです。今は、この時点=1850年頃の浅草の状況を想像してみて下さい。

 さあ、どうなっていたでしょう。

①浅草の中心には浅草寺(=宗教)があり、その北に、

②猿若町(=歌舞伎エンターテインメント産業)があり、さらにその北に、

③吉原(=セックス産業)が並んでいました。そして、

④浅草の南には米蔵(=経済力)が集中していました。

 どうです、バチカンとラスベガスとウオール街が同居してるようなもんですね。これほどのラッキーさの中で、天下一の盛り場・浅草は成立したのだ、ということを、是非把握しておいていただきたいです。この状況に比べると、スカイツリーくらいは大したことがないということが、すぐわかります。

 さて明治時代です・・・

<この話しは、長いので8回に分けてUPします。本日は、その第一回でした>

追伸①

 藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に載せていただきました。
 不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

 他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

 是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
 ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸②

 「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は262人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 参加者の方には、特典も! 

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて856日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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豆腐屋さんの笑顔計画

 先日Team Soy Yes の皆さんが見えました。

 皆さんが、豆腐とか納豆とか、豆関係の御職業の方、というメンバーです。

 しかも48名様と大勢で、弊店が実行中の「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」に参加して下さいました。有り難いです。

 このTeamのリーダーで、「すきや連」のメンバーでもある、「下仁田納豆」のNn都さんから、挨拶をして欲しい、という御要望がありましたので、勿論喜んでお引き請けしました。以下が全文です・・・

 皆さん、こんばんは、「ちんや」六代目の住吉史彦でございます。

 Nn都さんから「1千人の笑顔計画」の説明をして欲しい、というご要望がありましたので、致しますが、お配りした資料の通り、ややこしい所は一つもありません。

 まず、東北の牛を食べていただき、食後に飛びっきりの笑顔を撮影させていただき、その笑顔画像を「ちんや」のサイトにUPします。

 また皆さんが「ちんや」においでの間にプリントアウトも致しまして、その紙焼き写真を、次回持って来ていただくと、そのままクーポンに成って優待がある、という簡単なシステムです。

 今日全員が参加して下されば、参加者の数は230人になりますが、それを1千人まで続けよう、という試みです。

 さて、この企画は大震災という事態を受けまして、東北で牛を飼っている人達のためにやっているわけですが、それだけではありません。手前ども「ちんや」と御客様の間にも、損得勘定だけでない、もう一段深い関係を作って行きたい、そういう願いも込めて推進しています。

 写真のクーポンは、我々サイドからしますと、優待させられて嬉しいクーポンです。普通のクーポンは優待させられて腹立たしいですから、違います。嬉しいという感情が産まれる所がかなり違うと思います。

 ちょっと思い出していただきたいのですが、地震の後に、家族の絆・友人の絆・地域社会の絆というものが語られることが多いと思いますが、店と客の絆は、ほとんど語られませんね。皆さんも、ほとんどが御商売の方と思いますが、残念じゃありませんか?

 私は、実は数年前から、手前ども「ちんや」と御客様の間にも、損得勘定だけでない、もう一段深い関係を作って行きたい、そう考えて「すき焼き思い出ストーリー」とか「すき焼き川柳onツイッター」とか「記念日割引」とか、いろいろやって参ったのですが、地震の後に、店と客の絆のことが、ほとんど語られないのを視まして、これは残念だ、もう一段頑張ろう!と思って始めましたのが、この「笑顔計画」であります。

 だいたい「地域社会の絆」とか申しますが、その主役は、街の米屋さんや、肉屋さん、酒屋さんや、八百屋さんや、魚屋さん、それから味噌屋さん、豆腐屋さん、納豆屋さんですよね。商売をする中で、住民の顔と名前を覚え、性格や家庭状況を覚えている人が地域の主役であって、ただ住んでいるだけの人は、脇役です。

 でも、商売している=営利企業=儲けているという、枠組みの中に居るので、絆話しには成りにくいんだと思います。 これは実に残念な話しでして、実際問題、〇〇屋の皆さんは、知り合い相手の商売ですから、大して儲けてはおらず、所謂「三方良し」の関係の御店ばかりと思います。

 ですので、店と客の間にも、損得だけで無い一段上の、信頼関係を作ることは、必ず出来る話しだと思って続けています。この「笑顔計画」も、その一環です。

 ですので、皆様にご協力いただけますことを、本当に嬉しく思っています。本日は御来店、誠に有り難うございました。

 この日の笑顔画像をこちらのサイトにUPしましたので、ご覧ください。

追伸

 藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に載せていただきました。
 不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

 他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

 是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
 ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて854日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

十五代目

 「東都のれん会」の青年部「東若会」の例会が弊店でありました。江戸東京を代表する御店の若旦那さんばかりですので、気合いを入れて、お迎えをいたしました。

 この会をおひき請けして、「御酒はどうしようかな」と思案していますと、加盟店の中に蔵元さんがおいででした。

 「蔵元さん」という表現は正確でないかもしれません。この会社は元々酒屋さんで、「豊島屋本店」さんと言います。

 酒屋としての御創業は、江戸に幕府が開かれる前の1596年というから驚きます。その頃「鎌倉河岸」という、江戸城をつくるための材木や石などが荷揚げされた岸壁に店を開いたのが、そもそもということですが、この時は御酒をまだ造ってはいなかったそうです。

 この当時、江戸やその近郊ではおいしい日本酒を造る技術がありませんでしたから、灘や伏見、池田といった関西の酒蔵の酒を仕入れて⇒売っていたそうです。

 自分のところでも酒を造ろうということになったのは、明治時代の後期だそうです。最初は関西で、今は東京都下の東村山市で造っておいでだそうで、つまりは、明治時代後期からは、酒屋兼蔵元となったそうです。

 ブランド名は「金婚」と言って、明治神宮・神田明神・日枝神社、という東京を代表する3つのお社の御神酒になっているそうです。

 さて、その蔵元さんと、今回初取引となりましたので、十五代目(!)の御主人にお目にかかって、色々と御説明をいただきました。

 お目にかかりますと、十五代目は博士号を持っている、元研究者といいます。しかも半導体の。

 お話ししていて、へええ~と思いましたのは、その博士が、

 酒造りは、杜氏さんの人間の感覚に基づいて行っている、

と言っておいでだったことです。

 酒造りにも、まだまだ科学で分かっていないことがあったり、あるいは、分析は可能でも時間がかかって、人間の五感で測定した方が、はやくて正確、ということがあるのだそうです。

 そう言えば「ちんや」のスタッフも、肉の、例えば脂肪の良し悪しを数秒で判断していますが、その代わりに科学的に脂肪酸の構成比を分析したりしたら、大変な時間と手間がかかります。

 醸造の分野は、食品科学の世界では、先進的な分野だと思いますが、まだまだ、そういう話しがあるんですね。そうした問答が印象的でした。

 で、「東若会」の当日は、その「豊島屋本店」さんの、

 微発泡酒を乾杯用に、

 無濾過生原酒を、すき焼きに合わせさせていただきました。

 さすがに旨かったです、十五代の御酒は。

 うーい、ひっく。

追伸①

 『料理通信』6月号に「ちんや」が紹介されています。

 この雑誌に服部幸應先生が連載なさっている、「世界に伝えたい日本の老舗」というコーナーの第37回に、お採り上げいただきました。

 有り難いことです。ご購読はこちらです。

追伸②

 「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は178人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 参加者の方には、特典も! 

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて842日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

 

 

 

 

Filed under: すき焼きフル・トーク,飲食業界交遊録 — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)