名人が育つ街
スカイツリーが墨田区にできます。浅草から徒歩18~20分の場所です。
当然その影響をどう見込むか、で話題沸騰です。私も色々な方からしきりと、そういう質問をされます。以下は、それに対する私の返答です。何度も同じ話しをするのがメンドウなので、できればこれを読んで済ませて下さいね。
さて、浅草の周辺に誘客力のある施設が出来るのは、実は、これが初めてではありません。
まずは「明暦の大火」の後、浅草北方に吉原遊郭が出きて、その後「天保の改革」で浅草と吉原の間に猿若町(=歌舞伎町)が出来ました。
しかも、この頃浅草南方つまり浅草と江戸の間に蔵前があって、そこに大きな経済力が在りましたから、浅草には放っておいてもカネが落とされました。
この辺の経緯について詳しくは、このブログの4/17号~4/20号を全部お読みいただきたいのですが、なにしろ、浅草という街は、こうした歴史的な超ラッキーの上に成立しています。
食文化も職人芸も、この地盤の上に成立しました。明暦の大火から起算すると、およそ300年に渡ってカネが落とされ続け、その結果、この界隈に名所・名物・名品そして名人が育ちました。
名人を育てるのは大変なことです。だって、同じ仕事をしている100人位の中から、一人を選びだすから「名人!」なんです。同じ仕事をしている3人の中から、一人を選びだしたのでは、「名人!」とは呼びにくいですね。
扇子職人をイメージしてみて下さい。浅草に100人の扇子職人が居て、その中から一人を選べば「名人!」っていう感じがしますね。でも、そういう選抜をするには、そもそも100人の扇子職人がいて、その全員が扇子の仕事で生活が成り立っている状況でなければいけませんね。
勿論、良き時代の浅草には、その状況がありました。しかも、それが300年間。
だから、名所・名物・名品に加えて「名人!」が育ちました。それが浅草の職人芸であって、「食」も同様と思います。
さて、話しはここでスカイツリーです。
勿論、強い誘客力のある施設ですが、果たして、吉原や猿若町と同じような効果をもたらしましょうか。
勿論、有り難いことは、有り難いですけどね、はい。
もう幾つ寝ると~
追伸
4/20に開催した「ニッポン全国彪友会~台東万博!」を主催しました。この日の画像は、こちらをご覧ください。
本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて791日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。
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