肉メディア

「肉メディア」というサイトが出来るそうです。それは、

「今までありそうでなかった、肉好きの、肉好きによるお肉の情報ポータルサイト」。

お肉にまつわる各種情報、例えば、

・プロモーターさんやイベンターさんがこっそり教える、肉料理の名店紹介

・ニューオープンのお店の食レポ取材

を提供したり、イベントもやるそうです。例えば、

・有名ブランド牛を飼育している牧場の見学ツアー、さらには、

・「あこがれのあの牛を一頭買い」つまりサイトの会員が出資して(「クラウドファンディング」)牛一頭を買い、それを会員だけで食べるのだとか。

これはなかなか面白い企画です。

私も一部をお手伝いすることになりました。

どうぞ、ご期待下さい。

追伸①

下記↓の期間「ちんや」は夏休みをいただきます。ご不便をおかけしますが、どうぞお赦し下さい。

7月27日(月曜日)~30日(木曜日)

追伸②

すき焼き思い出ストーリーの投稿を募集しています。

すき焼きは文明開化の昔から、日本人の思い出の中に生きてきた料理です。でも残念ながら、その思い出話しをまとめて保存したことはなかったように思います。

ご投稿くださったものは、「ちんや」創業135周年を記念して本に纏め、今後店の歴史の資料として、すき焼き文化の資料として、末永く保存させていただきます。

どうぞ、世界に一つだけの、すき焼きストーリーを是非、私に教えて下さい。

投稿〆切は9月末日です。

既にご応募いただいた、50本のストーリーはこちらです。

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.976日連続更新を達成しました。

 

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比類なきオーケストラと、ウィーンの浅草

以前『浅草 老舗旦那のランチ』という本に出させていただいたのですが、その時お世話になった出版社の人が、これを読みなさいと言って、クラシック音楽に関する本を持って来てくれました。

『楽都ウィーンの光と陰 比類なきオーケストラのたどった道』

という御本で、著者の岡田暁生先生は気鋭の音楽学者だと言います。

『オペラの運命』で2001年度サントリー学芸賞受賞を、

『ピアニストになりたい!』で2008年度芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞を、

『音楽の聴き方』で第19回吉田秀和賞受賞をお獲りになっているとか。

なるほど。たしかにスゴいですね。しかも『音楽の聴き方』では結構尖がったことも書いておいでのようです。

さて御本を手にして、

そういう先生にしては今回のウィーンの御本は、ぺらぺらめくったところでは、普通のクラシック本みたいだなあという印象を持ちましたが、読み進めると違いました。いや、お見逸れしました。

普通の日本人は、

楽都ウィーン=ハプスブルグ帝国=優雅なワルツ

としか思わず、観光に行く時も帝国時代の宮殿や庭を訪ねて満足していますが、この御本は楽団の人材供給源に言及していて、そこが普通の観光ガイド本とチト違います。

で、面白いことに、そのウィーン・フィルの人材供給源・ウィーン音楽界の人材供給源は「ウィーンの浅草」だと書かれているのです。

「ウィーンの浅草」とは、ドナウ運河の東岸にある「プラーター」という地区のことです。

国立歌劇場や楽友教会ホールや美術史博物館が在るウィーン中心部から運河を渡って、プラーターに行くと居酒屋やカフェが立ち並んでいて、雰囲気がガラリと変わります。ワインを飲みにいったことのある方も多いのではないでしょうか。

そういう店にはBGMを流す楽隊がいて、ワルツやポルカだけでなくて結構本格的なクラシック音楽例えば『タンホイザー』のマーチを演奏していたります。もちろんかなり編曲してますけど。

そういう楽隊の音楽は、歌劇場や楽友教会と違ってタダで聴けて、身なりも正装する必要がないので、プラーターのさらに東側に住んでいる若者たちも聞くことができます。彼らこそ、将来の音楽家です。

プラーターのさらに東側に住んでいる人々とは、東欧からの移民の子孫、特にユダヤ系の人々です。

そう、かつてのハプスブルグ帝国は、東欧に広大な領土を持っていました。ハンガリーもチェコもクロアチアも、現在のポーランドの一部もオーストリア領でした。

そこから移民が「ウィーンで一旗あげよう」と上京して来た時に、まず到着するターミナル駅つまり上野駅みたいな駅がプラーターに在って、それでプラーターの東側に移民が多かったのです。

ハプスブルグ帝国は、こうした移民の中の優秀な人材を採りたてました。もちろん政治権力は手渡しませんでしたが、音楽や美術、医学といったジャンルでは、ユダヤ人を出世させています。

音楽でマーラー、美術ではクリムト、医学ではフロイトをあげれば充分でしょう。

そういう人材が必ず通って来た場所がプラーターすなわち「ウィーンの浅草」で、そこを単なる飲み屋街と思ってはいけない理由が、これです。

さて、そのハプスブルグ帝国は1918年に崩壊。

それに続くナチスの時代・東西冷戦の時代に、ウィーンは東欧との回路を遮断されてしまいますから、この時代は本当に大変だったろうと思われます。

かつての人材供給源を絶たれた後でも、今日に至るまでウィーン・フィルが世界一の水準で、プラーターも繁盛していますが、その陰には関係者の相当の御苦労があったものと痛感できます。

その辺りも御本に書いてありますから、是非ご購読下さい。

追伸①

下記↓の期間「ちんや」は夏休みをいただきます。ご不便をおかけしますが、どうぞお赦し下さい。

7月27日(月曜日)~30日(木曜日)

追伸②

すき焼き思い出ストーリーの投稿を募集しています。

すき焼きは文明開化の昔から、日本人の思い出の中に生きてきた料理です。でも残念ながら、その思い出話しをまとめて保存したことはなかったように思います。

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どうぞ、世界に一つだけの、すき焼きストーリーを是非、私に教えて下さい。

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凄い親戚関係

私の先祖・住吉忠次郎に関する資料が菩提寺から出てきた件は、7/22の弊ブログに書きましたが、同じ内容をFBにもUPしましたら多数のコメントが書き込まれました。

まずは料理屋同士が親戚という点に興味を持たれた方々・・・

「中清様と江知勝様が御親戚とは、存じ上げませんでした。いずれにしても貴重な資料ですね」

「中清と、江知勝に、ちんやさん。凄い親戚関係ですね!」

「すごい興味深く拝見しました〜!江知勝さんとも中清さんとも御親戚なんですね(^^)」

「人に歴史あり。江知勝と親戚なんだ」

「周辺の銘店が姻戚関係とよく解りました」

ちなみにですが、湯島のすき焼き店「江知勝」さんからは、日本橋小伝馬町のすき焼き店「伊勢重」さんへも婿さんが入っていますから、

「江知勝」さん、「伊勢重」さん、「ちんや」という3軒のすき焼き屋と、天麩羅の「中清」さんが親戚です。

次に、婿を取ったという点に興味を持たれた方々・・・

「参考になります。古い因習とは違った意味で、日本の伝統を守る方法なんでしょうね。酒蔵などでもある話のようです。」

「すご〜い!NHKのファミリーヒストリーに取材してもらったら更に色々出てきそうですね!」

多数のコメントをありがとうございました。

ところでこのコメントを読みながら、私は弊店に家訓がない理由を考えていました。

まったく想像ですが、当主が二代続けて婿さんであったからかもしれません。私は父から、お爺ちゃんは自分が婿だということを結構気にしていたようだと聞かされたことがあります。

祖父は浅草料理飲食業組合の組合長を務めるなど浅草の要職を歴任したのですが、それでも婿意識というのは消えないものだったようです。

プラス、時代があまりに激動の時代で、家訓などというもっともらしいものを遺す気にならなかった、ということもあるような気もします。

「ちんや」の歴史では、

1868年の明治維新で狆が売れなくなったのが第一のショック。

1923年の関東大震災が第二のショック。

1945年の東京大空襲が第三のショック。

で、家訓など整頓する場合ではなかったような気がします。

こういう時代を、他家から迎えた優秀な婿さんが凌いで「ちんや」は生き残りました。しかし、家訓を創ろうという気にはならなかったのだと想像できます。あくまで想像ですけどね。

私の代になってからも、BSE問題、口蹄疫問題、リーマンショック、東日本大震災などがあって、まったくゆとりというものが在りません。

そろそろ後世のことを意識した動きをしないといけないのでしょうが、

いやあ、どうも忙しくて。

そう、忙しくて、飲むのが(笑い)

追伸

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山崎豊子とすき焼き

「白い巨塔」や「沈まぬ太陽」など社会派小説で知られる山崎豊子は、大阪大空襲の直前すき焼きを食べていたそうです。

山﨑が2013年に亡くなって遺品の整理が行われていましたが、今回1945年元日から3月27日までの3か月分の日記が見つかったそうです。大阪出身の山崎が毎日新聞大阪本社に勤め始めたばかりの、20歳から21歳ころのものです。

その3月に大阪は大空襲に遭います。

日記は報道によりますと、

「三月十三日、この日は自分の生涯を通じ、又、自分の家の後代に至るも忘れる事の出来ない日だろう」

「すき焼きとお酒の贅沢な夕食を楽しみ、寝ついた後、その時が訪れる。「夜の巷、突如として騒然たり」慌てる家族、ラジオ、怒鳴り声、拡声器。防空壕へ入ってから聞く焼夷弾落下の音、飛び出して見てみると、自宅にまで迫り来る火の手・・・」

山﨑は、この頃既に作家に成りたいという願望を持っていたそうですが、記述はさすがの臨場感です。

3月13日までの大阪には、まだすき焼きを食べる余裕がありましたが、この後6月1日、6月7日、6月15日、6月26日、7月10日、7月24日、8月14日と繰り返し空襲が行なわれ、一般市民1万人以上が死亡したと言われています。

「不毛地帯」「二つの祖国」「大地の子」のいわゆる戦争三部作をはじめ、作家・山﨑豊子は戦争を描くことをライフワークとしましたが、その原点がここに在ったのですね。

山﨑作品には、すき焼きを食べるシーンがあまりないような気がするのですが、辛い体験と結びついていたからでしょうか。

すき焼きは国民食なだけに、色々な人の、色々な思い出と結びついています。

追伸

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地代値上”絶対反対”

私の先祖・住吉忠次郎に関する資料が菩提寺から出てきた件は、昨日の弊ブログに書きましたが、この機会にネットで「住吉忠次郎」と検索してみたら、面白い記事が発見できました。

面白い記事というのは、時事新報の 1935年(昭和10年)5月25日号の記事で、

「浅草目抜の場所 地代値上”絶対反対” 「ちんや」等百七名市と抗争」

というものです。

「抗争」とは穏やかではないですね。

記事によりますと

「東京市では昨年八月一日浅草公園を中心にした浅草区雷門一丁目、二丁目の市有地借地人五百余名に対し一斉に一割八分以上五割方の地代値上げを通告したのに対し借地人側は此値上げを不当として市と折衝を重ねていたが、遂に談判決裂、雷門二丁目の借地人、牛肉商「ちんや」こと住吉忠次郎氏等百七名の借地人は結束、弁護士真下伊藤両弁護人を代理人として牛塚市長を対手取り二十三日東京民事地方裁判所に借地料確認請求の訴訟を起した」

・・・ということだそうです。

この時代に御上にタテつくとは、良い根性です。

忠次郎は、昭和4年に結成された、現在の「雷門通り商店街」の前身「浅草広小路昭広会」の初代会長で、この記事は昭和10年のものですから、まだ在任していたのでしょうか、それで値上げ反対運動の中心人物に成ってしまったのかもしれません。

これに対して東京市側は、

「市有地なるが故に安く貸さねばならぬ理由はなくまた「市有地貸渡し規則」に依れば地代更改は五年以内でも時と場合では出来ることになって居り市財政の増収を計るため、充分附近の土地との振り合いを考えて値上げしたもの」と反論して争ったそうな。

現在も、この土地は都有地なんですが、都がザハ・ハディド競技場の建設費を賄う為に地代を値上げしてきたら、私は反対運動を起こさないといけないんでしょうか・・・

まずいな。

そうならない内に、今からあのデザインに反対しなきゃ。

追伸

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弔辞

私から四代前の人物が亡くなった時の弔辞が出て来ました。

菩提寺のご住職様が見つけて、お盆でお経をあげに来て下さった時に持って来て下さいました。

原文はカタカナですが、平仮名で書きますと・・・

本会名誉会員住吉忠次郎氏の母堂やす子殿逝去の訃に接し惋惜に堪えず茲に恭しく弔詞を呈し哀悼の意を表す。

大正十年一月二十日 帝国在郷軍人会浅草区分会

住吉やす子~生前は「やす」で通していたようですが~は「ちんや」の歴史では大活躍した人として知られています。

夫もいたようですが、そちらは活躍した形跡がなく、おそらく遊んでいたのでしょう。良い話しではないので詳しいことは伝わっていません。

さて、その「やす」までを私から遡ってみましょう。

私の父は滋夫。昭和十年(1935年)生まれで現在は弊社会長。つまり元気です。

滋夫の父は清。清は浅草の天麩羅屋「中清」の子として生まれ、住吉八重子と結婚して、婿に入りました。

清の父が忠次郎。忠次郎は湯島のすき焼き屋「江知勝」の子として生まれ、住吉まつと結婚して、婿に入りました。

その「まつ」の母が「やす」という次第です。

狆屋から料理屋に転業し、やがて牛鍋に特化していった期間を「やす」が担ったと伝えられています。

ちなみにですが、「訃に接し」は間違いではありません。

訃(ふ)は一文字で「死亡の知らせ」という意味があります。現在では「訃報に接し」と言いますが、あれは実は冗長です。

「訃報のお知らせ」はさらに冗長ですが、結構使われていますよね。

まあ、言葉は変転するので仕方ありません。蛇足ながらお伝えしました。

ブログネタとしては縁起でもないですが、お盆の話しということでお赦し下さい。

追伸

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すき焼き通!

今年も「海の日」にすき焼き通検定」試験を実施させていただきました。

どんな試験かは、こちらをご覧いただきたいと思いますが、この難関試験(?)に定員いっぱいの15人の皆さんが挑戦して下さいました。

勉強を頑張っていただき、とても嬉しいことでした。

しかも全員合格で素晴らしい限り。

合格者の皆さん、つまり公認「すき焼き通」と成った皆さんは以下(↓)の方々です。おめでとうございました!(敬称略)

西川昌宏

前山陽子

小針宏明

北川博子

藤岡 学

小金澤 未来

玉木翠

山田治彦

榊原孝一

高城慎一

箱崎 拓磨

横山久俊

田村 拓

赤坂真穂

<以上>

追伸

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卒寿のお婆さん

連日「すき焼き思い出ストーリー」投稿サイトに投稿をお願い申しておりますが、そのサイトに、昭和のはじめの「ちんや」の様子を投稿して下さったお婆ちゃまがおいででした。

「私卒寿のお婆さんと成り、戦後七十年何とか元気で生活して居ります。
昭和のはじめ、菩提寺が浅草河童橋にございますので春秋のお彼岸にはかならず・・・」

続きは、こちらをご覧いただきたいと思いますが、そこに年齢が表示されている通り、御年90歳。

その方が先日来店されました。

お目にかかりますと、90歳なのにとてもお元気!

しっかりすき焼きを召し上がっていただき、嬉しくなってしまいました。

投稿の御礼にと贈った「ちんや」のお食事券からは、お香の香りがしました。タンスに入れて大切に保管して下さったのでしょう。それも嬉しかったです。

やはり肉は長寿の素ですね。

これからも肉を召し上がって、長生きなさって欲しいものです。

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.969日連続更新を達成しました。

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スタミナ

だ、か、ら、「焼き肉食べ放題」は止めた方が良いって、私は何度も言っているんです。

報道によりますと、

「焼き肉食べ放題店で、「O(オー)157」による食中毒が発生し、4日間の営業停止処分となった。」

「腸管出血性大腸菌「O157」による食中毒が発生したのは、武蔵野市にある焼き肉や、すしが食べ放題の「すたみな太郎NEXT 吉祥寺店」。6月24日に焼き肉などの食事をした17歳から61歳の男女13人が、腹痛や下痢などの症状を訴え、このうち2人が入院した。」

「店は、7月6日から営業を自粛しており、東京都は、9日から4日間の営業停止処分とした。」

ネットに掲載された画像を視ますと、冷蔵オープンケースに、肉がテンコ盛りにされており、客がそこへ行って肉を取る形式のようです。

元々菌が付いている牛肉は、冷蔵して保管し、食べる時に充分加熱するから、食べられるんです。

特にO157は菌が少数でもはげしい症状を引き起こすので、温度を絶対に上げてはいけません。それなのにオープンケースにテンコ盛りとは。

店が公表した謝罪文は、

「今後は、所轄保健所のご指導に従い、店舗施設面での改善を実施しますとともに、この事態を厳粛に受け止め、再発防止に向けて以下の対策を徹底し、食の安全・安心の確保に一層の万全を期して参る所存でございます。」

「なお、7月13日から営業開始の予定でございます。今後ともすたみな太郎NEXTへの一層のご愛顧を宜しくお願い申し上げます。」

と、いう具合に謝るのと同一の文章で、営業再開の予定を言っちゃっています。

13日から再開だそうですが、それまでに「食の安全・安心の確保」は出来たんでしょうかね。

「確保」できなくても、再開しちゃおう!という企図が透けて見える文だなあと思うのは私だけでしょうかね。

流石のスタミナですな。

 

追伸

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自店紹介

今年の秋に料理業組合「芽生会」(=青年部)の全国大会が東京でありますので、東京の会員店が自店紹介の一文を書くことになりました。

当然、屋号の由来や創業譚などが必要ですが、同業同士ですので、公式サイトに載せている様な「通り一遍」の情報ではなく、もう少し突っこんだものが欲しいね!ということになりました。

しかしながら、これって意外と難しいんです。

とても立派な創業譚が在る御店さんと、そうでない所に分離する懸念がありますね。前者はたくさん資料が出てきて、後者は乏しい感じに成るでしょう。

ウチにしてからが、明治維新になって狆の商売が傾いてきたのが、そもそも料理屋にシフトした理由です。当時浅草という場所で、何か儲かる生業がないかと探して、安直にそうしたのだと思われます。

そういう次第なので、ウチは縁起とか家訓とか理念とかがまったく無いです。

創業者もハッキリ特定できない位です。

「住吉やす」という人物(女性)が重要らしく、その夫もいたはずですが、夫はあまり活躍した形跡がなく、とにかく良くわかりません。まあ、あまり良い話しではないのでしょう。

私は、若い頃、その辺りの事情を潔く認めるまで間、店の過去を聞かれるのが非常に苦痛でした。

今はもちろん開き直って、この話しも面白おかしく語ることにしていますけどね。

要するに、生業として仕方なく料理屋を始めたのであって、世間の皆さんが思っているように、所謂「老舗」店には、漏れなく素晴らしい創業譚が在るわけではないんです。

芽生会・記録部会の部会長NY川さんも、御店の屋号の由来について、先代から教えられていないと言います。どうやら、あまり良いイメージではないらしいのです。

なるほど、そういうこともありますよ。

老舗というと、とにかく立派なお話しが無いと気に入らないという人が世間には多いですけど、それって「老舗」のことをゼンゼン分かってない方々ですね。

生まれた時から立派なのは御釈迦様だけで、老舗は御釈迦様ではありません。

そういう共通認識があった方が良いんだよね~

と思いながら、自店紹介の文章をただ今書いています。

追伸

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