昭和な空気

私がサラリーマン時代にお世話になった、当時の副社長さんが「ちんや」へ見えました。

私が入社する遥か前、その方が現場の課長だった時の部下の皆さんを連れて見えました。

元・お嬢さんの皆さんを指さして、

 「50年前は、このバアさん達も結構可愛いかったんだよ!」

その様子を見ていて私は、

昭和な日本企業っていいなあ、と改めて思いました。

そう、私は1965年生まれ・1988年(=昭和63年)入社組。『半沢直樹』原作者の池井戸潤さんは、残念ながら直接の面識は無いのですが、私と同じ年に同じ大学の同じ学部を卒業しているようです。

『半沢』は「バブル最後の入社組」でしたが、この世代は昭和な空気を吸った最後の世代かもしれません。

『半沢』を視てバブル世代は熱狂しましたが、若いビジネスマンは、

出向させられたら、銀行なんか辞めてしまえばいいのに!

と不思議に思ったそうです。一つの会社に執着するのが信じられないそうです。感覚が違うものですね。

私は勿論『半沢』派。

1988-1965=23年

2013-1988=25年

ですから、もう昭和より平成を長く生きていますが、根っこは、やはり昭和ですね。

副社長さんの話しをFBにUPした時にコメントを付けてくれた人も、やはりバブル世代でした。

「こういう話を聞くと「いいね」を50回くらい押したくなります。」

「それだけ消息が判明してるってすばらしいですね。私が新卒で入ったところは、合併に次ぐ合併でOG会組織もうやむやになってしまいましたし、個人的なつながりもごく少数の個々のグループに紛れてしまいました。」

バブル世代は平成に入ってから、

失われっ放し

やられっ放し

ですが、今「倍返し」を真剣に目論んでいる人は結構多いのかもね、そう思うこの頃です。

追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は366人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.313日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

 

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天然氷

お暑うございます。お客様から、

浅草に、天然氷の、かき氷を食べられる所はない?

と聞かれ、不覚にも答えられませんでした。基本的に甘いものには疎いのです。はい、酒飲みなんもんですから。

で、仕方なく、ネットで検索しましたら、ありました、

「暑い夏にはやっぱりコレ☆東京で天然氷のかき氷を食べられるお店ランキング」

というサイトが。

どれ、どれ、

10位=「とちまるショップ」

住所:東京都墨田区押上1-1-2 東京ソラマチ 4F

「東京スカイツリーのソラマチにある、栃木県のアンテナショップです。

栃木だからこそ、とちおとめを使ったシロップがウリ。

さすがにウリなだけに、美味しいと評判です。スカイツリーを眺めて、その帰りにふらっと寄ってみるのも良いですよね。」

うーん、浅草から遠くはないけど、夏休み中は込んでるんでしょうね。

9位=恵比寿、8位=江東区富岡、7位=銀座、6位=世田谷区下馬

やはり浅草は出てきませんな。

5位=秩父郡皆野町金崎 東京じゃないじゃないか!

4位=北区十条仲原、

3位=柏市柏 東京じゃないじゃないか!

2位=藤沢市鵠沼海岸 もう!東京じゃないじゃないか!

そして、

1位=「ひみつ堂」

住所:東京都台東区谷中3-11-18

「やっぱり天然氷のかき氷と言えば、ここは外せません。

行列必至のお店です。夏に炎天下の中、数時間は当り前・・・なんてことも。

それでも食べる価値ありの、美味しいかき氷なんでしょう!最近、マスコミ等でも「天然水のかき氷と言えば」と枕詞のように出てくるようになったひみつ堂。だからこそ、行ってみたい、でも混んでる・・・」

と、ありますから、ここが本命なんでしょうね。

不勉強でした。

行ってみないといけませんが、谷中は台東区なんですけど、山の向こう側だから、遠いんだよなあ。

外は暑いし・・・

追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

 追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は361人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.265日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

洋酒天国

お若いのに「開高健に詳しい」とおっしゃる美女と話していて、

あ~開高健ねえ、読んだことありますけど、浅草については結構ヒドい文章書いてますよねえ!

浅草のストリップ劇場に勇んで乗り込んだのに、乗り込む前の食事を喰い過ぎて、気分が悪くなって⇒トイレで昏倒したとかいう体験談が本に載っていますよねえ!

と言ってしまいましたが、私の大きな間違いでした。

後で調べ直してみましたら、それは山口瞳の『新東京百景』でした。

この本は、古き良き街並みが破壊され変貌を続ける、バブル時代の東京を皮肉に描いた本で、全体的には悪くないのですが、なにせ浅草の部分は、こういう話しになっていて「・・・」です。

間違いの言い訳ですが、開高健と山口瞳は二人とも酒関係。しかも、サントリー関係者です。

30歳を過ぎて失職していた山口は、開高に推薦してもらって当時の「壽屋」(=現在のサントリー)に入社します。

PR雑誌『洋酒天国』の編集や、コピーライターとして活躍。ハワイ旅行が当たる懸賞のコピー「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」が、コピーライター時代の代表作です。

その後『江分利満氏の優雅な生活』で1963年に「直木賞」を受賞、この時点でも未だサントリー社員だったそうです。

対する開高も年齢は下ですが、壽屋宣伝部では先輩で、やはり『洋酒天国』の編集やコピーライターをしていました。代表作はトリスウイスキーの「人間らしくやりたいナ」。

『裸の王様』で芥川賞を受賞するまで社員だったのも、山口と似ていますね。

若い頃の私は、こういう雰囲気に憧れて、自分が酒を飲む以前から読んでいましたが、このところはご無沙汰していました。世間で開高や山口が話題になることも最近はあまり無かったと思います。

そんな中で、開高の話題が出て来たので、昔のことを思い出して楽しくなり、調子に乗って、勇足を踏んでしまいました。

お恥ずかしい限りです。

 

追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は361人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.247日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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ボランティア・ガイドさんの為に

「東京シテイガイドクラブ」(TCGC)という、ボランティアで東京ガイドをする皆さんを相手に、講演をすることになりました。

この皆さんは、まず「東京シテイガイド検定」という、なかなか難しい試験に合格し、さらに、個々に古典芸能文学・神社仏閣・美術・商店街・産業観光といった専門分野を持ち、さらにさらに英語・各国語での案内も請け負う、という素晴らしい皆さんです。

今回私がお話しするのは、その内の勿論「グルメ専門グループ」の皆さんです。

<以下が、その全文です。読むのに90分かかりますので、ご注意ください。>

東京シティガイドクラブ皆さん、このたびはご来店いただきまして、ありがとうございます。早速話しを始めさせていただきます。

住吉でございます。ただ今よりすき焼きの話しをさせていただきます。今日は選挙の先日でございますけどね、ここにおいでの皆さんが無党派なんでしょう。言うことに制限が無くて助かりますが、しかし慎重に、軽口は無しで国会答弁のように進めたいと思いますので(笑い)、よろしくお願い申し上げます。

では、早速参りますが、今日はですね、最初にすき焼きの歴史の話しを、30分程度時間をとってさせていただきます。そこを押さえていただきませんと、この世の中におけるすき焼きの位置づけというものが分かりませんで、位置づけが出来ませんと、結局現代のすき焼きの話しも出来ませんので、最初の30分は料理業組合の勉強会みたいな話しをします。ご退屈とは存じますが、どうぞご勘弁いただきたいと思います。

さてまずルーツの話しからです。いくつか説がございまして、魚介類と野菜を杉の箱に入れて味噌煮にしたから「杉焼き」だとか、農具の鋤の上で焼いたから「鋤焼き」だとか、、肉を剝(す)いて薄くするので「剝き焼き」だという説もありますが、本当にそうした文献上の料理が受けつがれて来て、やがてすき焼きに成ったのか、私はわかりませんし、多分調べようがないですし、正直私はあんまり関心が無いです。それに皆さんも、そういう話しはつまんないですよね、だから「へえ、そういう説があるのね」位にしておいて、先に行きたいと思います。はい、この部分に興味を抱いていた方には、ゴメンナサイでした。

現代のすき焼きに直結しているのは、江戸の街で密かに営業していた「ももんじ屋」または「ももんじい屋」の料理で、けものの肉を鍋物にして食べさせていたようです。当然、当時表向き肉食はタブーですから、「薬喰い」と称して、アングラで食べていました。獣の産地は江戸郊外で、農民が害獣である猪や鹿を駆除した時、それを利根川で江戸へ運んでいたそうです。牛や馬は害獣でなく役にたつ動物ですから、さらにタブー感が強かったはずですが、それでも牛肉・馬肉を食べさせることがあったようです。ここで食べられていた料理が今日のすき焼きの、直接の原型です。今でも両国で1718年ご創業の「ももんじや」さんが営業していますね。両国橋を渡ると、すぐ右手のビルの外壁にイノシシが逆さまに吊るしてありますから、行けば「おおっ!」と思うはずですが、あの御店はそうした御店の生き残りです。

で、その「ももんじや」で食べられていた、牛鍋が明治時代になりまして解禁になるのですが、その前に幕末に「プレ解禁」がありました。「プレ解禁」の原因は言うまでもなく、日本に入って来た外国人の影響です。1859年に横浜が開港しますと、居留地の外国人の需要に応えて、肉を調達する必要が生じました。当時は日本に畜産業がなかったため、農耕作業に使った牛を、退役させて潰して食用にするようになりました。1864年には横浜に屠牛場が開設され、幕府から公認もされたようです。維新の4年前の話しです。

時に皆さんは15代将軍・徳川慶喜のあだ名を知ってますか?「暴れん坊将軍」じゃないですよ!それは松平健さんですからね。慶喜は豚が好きで食べるので、「豚将軍」「豚一殿」とあだ名されていたんですね。将軍が豚を食べる位ですから、牛鍋屋も、もはやアングラではなく、公然と開業し始めます。高橋音吉という人が牛鍋屋「太田なわのれん」を創業しましたのは、そんな中のことでありまして、時は1868年すなわち明治元年、場所は横浜末吉町でございました。

やがて牛鍋屋の開業ブームは横浜から江戸にも飛び火します。1867年に中川嘉兵衛という人が江戸のはずれ荏原郡今里村に屠牛場を設立しまして、江戸の牛鍋屋にも牛肉が供給されるようになります。その場所は現在の白金台2丁目です。その辺りは今では、シロガネーゼのお洒落な街ということになっていますけど、当時は田舎だったんですね。

で、この屠牛場は近代的な屠殺場であったようです。当初は外国人向けが主でしたので、衛生的な取扱いには気をつかっていたようで、それで、今日の感覚からすると少し驚く話しですけど、この屠牛場で屠殺した牛がブランド牛になって行きます。どこで飼われていたか、ではなくて、どこで屠殺されたか、がブランドだったんです。今でも「今半」さんとか、「今朝」さんというすき焼き屋さんが在りますが、「今」の字が入っているのは「ウチは今里村屠牛場~後には「東京共有屠牛場」という名前になりますが、そういうチャンとした所から牛を買っている、チャンとした店だ!」ということを主張しているですね。ももんじや系の店でも牛鍋を出していたわけですが、「同じような料理だけど、私屠殺の牛は使ってないよ!」という意味が店の名前に込められているわけです。トリビアでしょう!次にカノジョと「今半」さんに行ったら話して自慢してみましょう。

さてさて、1872年ついに明治天皇が初めて牛肉を召し上がりました。そのことが報道されまして、肉食は完全に解禁。解禁どころか、文明開化のシンボルになります。1877年の東京における牛鍋屋の数は550軒を超えるほどであった、と伝えらえていますから、いかに当時の牛鍋のブームがスゴかったか、お分かりいただけると思います。今日すき焼き屋を続けている店のほとんどが、この頃に開業した者の生き残りです。ただし、言い方は変わっていますね。関東では大正時代まで「すき焼き」と言わず「牛鍋」と言っていましたから、我々は牛鍋屋の生き残り、というのが正確です。

ここで昔の調理方法のこともお話ししておきましょう。

横浜の「なわのれん」さんの食べ方は味噌煮込みですが、このやり方は、今では珍しいですが当時は珍しい方法ではなかったようです。明治初期の牛肉は、そもそも肉用に育てられていませんから固くて、また放血の仕方が上手でなかったために獣臭さがキツかったようです。それで、臭さを緩和し、また肉をやわらかくするために、ぼたん鍋や紅葉鍋に類似した方法で調理したようです。つまり味噌仕立ての味付けでした。

後に肉質が良くなるにつれて、味噌から醤油と砂糖などで作る割下で煮る方法が主流になっていったようです。一方、関西では、皆さんご存知の通り、醤油と砂糖を事前に煮合わせないで、鍋の上で混ぜる方法が主流です。

具材の内容ですが野菜は最初は寂しくて、ネギのみの場合も多かったようですが、ネギは臭み消しのスパイスとして必需品だったので、ネギは必ず入っていたと思われます。

ネギというのは大変便利な食べ物でして、生だと辛味があってスパイスになります。しかし加熱すると甘くなってきて野菜として美味いです。重宝な食べ物なので、ネギはすき焼きの第二の主役なのです。その後明治20年代辺りから大正時代にかけて、すき焼きは高級化を始めたようです。具体的にはザクの具が増えます。この頃白滝や豆腐が使われ始めましたが、この皿はザクザクと切ることから「ザク」と通称されるようになりました。そして高級化では、関西の店の方がやや先行していた模様です。現存してはおりませんが、関東大震災の後に関西から東京へ進出したすき焼き屋があったと聞いています。店が現存していませんので、どういうすき焼きだったか、ハッキリとは分かりませんが、わざわざ東京へ進出する位ですから、創意工夫をこらし、気合いを入れて出て来たと考えて間違いはないと思います。で、この傾向は東京勢つまり関東式の牛鍋屋には相当脅威であったようです。関東では牛鍋屋は当時「牛屋ぎゅうや」と言われて、あいかわらず下卑た店、という認識でした。「牛屋の女中」といいますと、下品で愛想が悪いが体力はある、という意味でして、これでは高級化できません。関東大震災が起きて打撃を受けたところへ高級なライバルが現れたので大変だったと思います。関東の牛鍋屋が「牛鍋」と言うのを止めて、「すき焼き」と言うようになったのは、この頃でして、中には、もう廃業した御店ですが『高等すき焼き』という名前にした店すらありました。ザクの具材も、おそらく「高等」にするために増やしたんだろう、と想像します。この御店は10年位前まで現存していて、最後まで『高等すき焼き』というメニュー名を使っていまいた。「牛屋」と蔑まれているようでは、やっていけない、という恐怖感が、こんな滑稽な名前のメニューを産み出したんですね。勿論牛鍋という名前に誇りをもって護っておいでの店もありますが、かなりの数の関東の牛鍋屋が名前を変えました。その背景は、そんな感じだったと御理解下さい。

さて、牛の話しよりザクの話しが先になってしまいました。牛のブランド化の話しもしてに誇りをおきましょう。今では全国各地に牛のブランドがありまして、牛と言えば「〇〇ぎゅう」ですが、ブランド化の歴史は、実はそんなに長くありません。

日本初の牛のブランド=神戸ビーフは生産地のブランドではなく、流通経路の途中の集積地の地名でした。神戸の居留地の外国人が肉を求めたことが、神戸ビーフの「そもそも」でありまして、ブランドと言いましても、今とはかなり感覚が違います。「伊万里焼」は伊万里で焼かれておらず、伊万里は積み出し港の地名でしたが、それと似ていますね。今現在は兵庫県北部の但馬地方の牛のことを「神戸ビーフ」と定義していますが、明治時代には事情が違っていましたので、ご注意願います。

生産地の地名がブランドになるのは、1935年(=昭和10年)以降のことでありまして、松阪牛が『全国肉用牛畜産博覧会』で名誉賞を受賞したことから全国的に知られるようになりました。しかし、この後すぐに日本は戦争に突入してしまいまして、第一回の松阪肉牛共進会が開始されたのは、戦後の1949年(=昭和24年)のことでした。

この辺りが牛のブランド化のさきがけです。これ以前は、肉牛の生産と申しましても、最初は田圃で使役するわけです。ですので1960年頃(昭和30年代中頃)まで「肉用牛」とは言わずに、「役肉用牛」と言われていました。最初から肉牛として育てていなかったんですね。それがブランド化の進展と並行して、「役」が取れていったわけです。で、肉質も変わって行きまして、今日皆さんが良く目にする所謂「霜降り」の肉が登場するわけです。

ここでもう一回整理しますと、「今半」「今朝」と言った場合、それは近代的で衛生的な屠殺場から牛を仕入れている、という意味のブランドで、次に神戸ビーフと言った場合は、牛が売られている土地のブランドで、その次に松阪牛と言った場合は、牛の生産地のブランドという具合に、ブランドの意味あいが変化してきたわけです。3番目の産地ブランドが確立したのが昭和30年代のことでした。そして、さらに申せば、それ以降は、あまり画期的はことが起きていなくて、今は個人ブランドが2~3在ったりしますが、全体的にはあまり進歩していない、と申すことができます。これ以上話すと愚痴が入りますが、なんか新しい発想ってないの?って私は思いますし、誰も出さないなら、オレが出そうかな!って最近は思ったりしています。

このように、たいていの料理は、時間をかけてだんだんに日本人の間に定着して来たのに対し、すき焼きは幕末から明治初期の、ごく短期間に国民食になりました。すき焼きは明治時代という特定の時代と結びついています。日本人が近代化へのチャレンジを始めた時代つまり現代へと続く道を歩み始めた時代の、民族的な強烈な記憶とすき焼きはつながっています。この点が、すき焼きを商売にする人間にとっては非常に大事な点ですので、ここであらためて指摘させていただきました。

さて、この段の最後に、関東風と関西風の話しもしましょうかね。ご存知と思いますが、関東風は割下ですき焼き、ですけど、皆さん、割り下をタレっていうのは止めて下さいね!そういうのは「Eバラ」さんだけにして欲しいです、ホントに。関西風すき焼きは、醤油と砂糖で、すき焼きと言っています。松阪はじめ中京圏も醤油と砂糖で、すき焼きです。関東風と関西風の境目はご存知ですか。それは豊橋でして、家によって両派混在しているそうです。また豊橋には「小林」さんという、醤油と砂糖なのだけど、最初に野菜を入れる珍しい店があります。トリビアですよ。飲み会トークのネタにして下さい。

はい、ここまで大丈夫ですか、徳兵衛さん、起きてますか、ここでストレッチしますね。はい結構でした。 

次に、浅草にすき焼き屋が多いわけもお話ししておこうと思いますが、その為には、浅草の歴史もある程度押さえていただく必要があります。ですので、話しは、イキナリ推古天皇の頃に戻ります。またまた30分ほど浅草の話しになりますが、大丈夫ですか。でも、ごくザックリですから。浅草史をさらってみたいと思いますが、そのことを考える前に、ですね、成田空港は東京か?っていうことを、まず考えてみると、浅草のことが分かりやすいです。成田空港は東京の首都機能の一部として建設されたわけですから東京ですね、当然。特に外人さんから見たら、完全に東京です。

でも成田という街は新勝寺さんを核に東京とは別に元々あった街ですよね。浅草もそうなんです。江戸とは別に、太田道灌が日比谷に城を築く前から在った街なんです。成田は東京とは別に出来た街ですが、東京首都圏に吸収されました。浅草も江戸とは別に出来た街ですが、江戸に吸収されました。そこが似ているんです。

では、ざっくりと話していきましょう。今日の話しはいたって、ザックリです。細かい年代とか数とかは言わないことが多いと思います。だって、ネットで調べられますからね、細かいことは。アウトラインだけを、お分かりいただくようにしますので、よろしくお願い申し上げます。

さて浅草寺の縁起によりますと、推古天皇の時代に浅草寺が建てられた、ということになっています。推古天皇と言えば7世紀ですね。縁起の筋は、隅田川で漁をしていた人が、川から仏様を網ですくいあげて、それを安置する御堂を建てた、という例の有名な話しです。この話しは歴史としては確認できていませんが、奈良時代に大きな建物があったことは考古学的に確実だそうです。ですので、浅草が道灌より古いことは間違い無いです。つまり江戸を築かれる遥か昔から、浅草は在ったわけで、街の成り立ちが違いますので、浅草は東京の盛り場の一つに過ぎない、とは言えないわけなんですね。浅草の方から見ると、江戸の方が後から出来てきた、ということになるわけです。もっとも、江戸とは別に成立していた浅草は、この当時は、まだ盛り場っていう感じではなかったと思います。隅田川の水運の拠点として、浅草寺の門前町として、まあ、それなりの賑やかさっていう位だったと思います。日本一の盛り場という感じにはまだゼンゼン成っていません。

そこへ徳川家康がやって来ます。やって来て江戸時代になりましても、江戸初期の江戸の市街地は、現在の千代田区と中央区位の大きさでしたから。まだ江戸と浅草は別物でした。17世紀までは別だったと考えられています。その間の、アキバなんて所は湿地帯でした。あきばはらって言う位ですから。アキバの原っぱだったんですね、あの辺は。後に、ハとバが入れ替わって、あきはばらになりますけどね。

さて、その江戸と浅草をくっ付けたものは、なんでしょう?それは、蔵ですね。蔵と申しましても酒蔵じゃあないですよ。いいですか、酔っ払いの皆さん、米蔵です、お米の蔵です。江戸時代、武士の給料は米で支払われていましたから、当然そのお米を保管しないといけないですね。で、そういう倉庫をたくさん建設したわけです。当時の輸送手段は舟ですから、隅田川ぞいに蔵を建設しました。場所は、浅草から地下鉄で1駅南の蔵前、つまりは江戸と浅草の間ですね。現在でも東京郊外に行くと、倉庫が立ち並んでいる地帯がありますが、似てますね。そういう次第で米の倉庫が、江戸の北側の郊外で、浅草のすぐ南の、蔵前に建設されました。もっとも蔵前に蔵が建設された、っていうのはおかしいですね。蔵が建設されたから、蔵前っていう地名になったんですよね。

さて、ここに蔵が出来たことが、浅草の運命を大きく変えます。ごく普通の門前町が天下一の盛り場へと変貌を遂げる、そのスタート地点がこの頃です。変貌の主役は「札差」という商人です。武士たちのために、米を保管するだけでなく現金にも替えてくれる「札差」という商人が出てきましよね、歴史の教科書に。習ったでしょう。覚えてませんか。勉強はしておくもんですよ。この取引からは莫大な儲けが出たらしくてですね、さらに儲けを金貸しに回して、さらに儲けたようです。それで、「札差」が大きな力を持つようになったそうです。浅草が発展した軍資金は、この札差マネーです。大富豪となった札差たちには当然豪遊する場が必要ですから、遊興できる店が出来るようになります。これが浅草のホップと言えます。

そして、ステップとジャンプは、1657年と1841年でした。まず1657年すなわち明暦3年の出来事ですが、「明暦の大火」という大変な被害の出た火事の後、幕府は都市整備に着手します。そして、その一環で、現在の中央区にあった、公認の遊郭である吉原遊郭を浅草北方の千束に移転させます。遊郭は当然風紀を乱しますので、江戸の中心部からどけたいですね。それで江戸の外の、しかも方角の悪い北東へ追いやったわけです。

方角が悪いって失礼な話しですけどね、だいだい江戸が浅草の南西に出来たから、北東に成っただけで、こっちのせいじゃあ、ないんですけどね。

ともあれ、吉原が浅草の頭の上に移転して来ました。移転して来ましたので、「新吉原」と呼ばれたそうですが、ここがまさに天下の豪遊の場となります。今や、お金持ちが居て、お金を使う場がようやく出来ました。その間に浅草があって、観音様もあるわけですから、ここにお金が落ちないわけはありませんね。このステップは大きかったようです。

そしてそしてジャンプは江戸時代も、もう後期に入った1841年(天保12年)です。これまた歴史の時間に習わされたと思いますが、「天保の改革」が実行されます。江戸市中に散在していた歌舞伎座が、風紀を乱す、ということで、これまた、北東に追いやります。場所は、浅草北部の浅草六丁目で、浅草寺と吉原の間です。勘三郎さんの御先祖の中村座、それから市村座、河原崎座といった小屋ですとか、操り人形の結城座なんていうのもできました。役者さんも集合して住まわせ、浅草猿若町と名づけました。これが浅草の発展のジャンプです。

 なにしろ、当時江戸市中でお金が集まる所と言えば、魚河岸と吉原と、猿若町だったそうです。魚河岸の場所は築地じゃないですよ、この頃はまだ日本橋にありました。

そして残りの二つは浅草の、近所です。浅草が天下第一の盛り場になったのは、この頃と言えます。

この時点で浅草は天下一の盛り場でしたが、さて明治時代になって、さらに繁栄を謳歌します。

 キッカケは「公園」の整備に関する、新政府の布告です。明治6年の、この布告により浅草寺境内は「浅草公園」と命名されたのですが、この時決めた「公園」が日本初の「公園」です。最近は言いませんが、以前は浅草のことをエンコと言いましたね。「エンコ行こうぜ!」って言うわけです。そのエンコの語源が公園です。公園をひっくり返しただけなんですけどね。まあオカジューと一緒です。

 でも「公園」って聞いて?と思いますよね。浅草って公園ですかねえ。でも「公園」だったんです。この当時の日本人は「公園」という言葉を分かっていなかったんです、この頃造られた新語だったからですね。当時はどう解釈されていたのかと申しますと、公けに遊興して良い場所とか、遊園地と考えていたようです。もう少し言えば、「公園」即ち盛り場っていう感じです。

 それで「公園」は、設立の趣旨とは違って、盛り場化する傾向にあったようです。公園本来の、西洋式の正常な発展をとげた公園は、まず上野公園位のもので、それはボードワン博士とかいう方の功績だそうですが、その他の「公園」は盛り場と化して行きます。「公園」がそうなって行った理由ですけど、当時新政府は財政が厳しくてカネがありませんでした。そこで公園経営に必要な経費を稼ぐため、敷地の一部を賃貸しするんですね。それも射的とか、玉突とか、楊弓とか、見世物なんかの店に賃貸してしまったのです。浅草の場合は、賃貸ししたどころではなく、土地を掘って「ひょうたん池」という池を造り、池の周りを造成して街を用意し、そこを貸し出した、と言いますから、ほとんど不動産屋ですね、新政府は。

 この時に造成された一帯こそ、明治・大正・昭和戦前と日本一の歓楽街と成る浅草公園第六区縮めて「六区」です。今でも楽しいショーを見せてくれる「ロック座」がありますが、ロックンロールをやる座じゃないですね、六番目の区画です。女性もおいでなんで詳しくは割愛しますけどね。さてなんでしたっけ。そうそう、そういうわけで、「公園」なのに公園じゃない浅草公園が出来上がりました。その浅草公園について、上野観光連盟のHPには、こういうことが書いてありましてね、読みますが・・・

 上野公園の場合は、管理が宮内省だったので、自由な経営が許されず、そのお蔭で、公園の手本とされるような発展経過をもち、一千万を超える大東京の中にあって広さにおいても、施設、景観、緑地など都市公園として、内外ともに誇りうる上野公園となったのである。もし上野公園にした所で、管理が宮内省に移らずに東京府に委ねられていたら浅草、深川、芝の三公園と同様俗悪化の道を辿ったにちがいない。」

 うーるせいよ、っていう感じですけどね。でも、そういう話しは、まあ置いと・い・て、ですね。浅草に戻しましょう。このような次第で、浅草は盛り続け、時代が下ると今度は演劇館、活動写真館、「浅草オペラ館」などの上演が連日行われるようになります。浅草は芸能の殿堂、と言われたのが、この時代ですが、その盛り場を政府が作ったっていうところが、歴史のチト思い白いところです。

「ザックリ浅草史」をいったんまとめておきましょう。まずですね、浅草は江戸とは別に、江戸が出来る前から成立していた街でした。後から、江戸が浅草の南西に出来て、次いで江戸の米を扱う米蔵が、江戸と浅草の間に出来ました。これによって、蔵と一緒にお金が浅草の近所にやって来ました。さらに、幕府の政策で、浅草の北に吉原が、浅草と吉原の間つまり浅草のすぐ北に歌舞伎座が出来ました。このことが、盛り場・浅草の運命を決定したわけです。例えて申しますと、バチカンとウオール街とブロード・ウエイと、それから吉原が並んでいる、という感じのアリエンテイーなラッキーさの上に浅草は成立しました。だから浅草は東京の繁華街の一つでは断じてなく、世界史にもあまり見かけないようなユニークな街なんです。さらに、明治時代に入って東京府の政策によって、さらに繁華になり、日本随一の盛り場になります。

はい、浅草の歴史を30分ほどでザックリ追って参りました。そういう浅草にすき焼き屋がたくさん開業するわけですが、「浅草にすき焼き屋が多いわけ」~それは先に結論を言ってしまいますと、特に深い理由はなく、結果的にそうなっただけと思われます。明治5年~15年頃に、牛鍋屋の流行がありまして多数の店が開業しました。 既に明治10年には東京府下に488軒もの牛鍋屋があった、と言いますから、かなりすさまじいブームだったようです。この時期が、浅草の繁華街としての全盛期に当たっていて、浅草は日本随一の繁華街でしたので、店を開業しようとする者は、場所として浅草を選んだと思われます。すき焼きとか洋食は、その時代の新文化・新ビジネスですから、ビジネスとして成立させるために、経済力のありそうな土地へ出るのは当然のことで、浅草に店が出来たのは当然の成り行きと思います。例えば、今半さんと米久さんは、地方から上京して来て、浅草を選んで開業しています。逆に、以前から浅草で商売をしていた者が、牛鍋の大ブームを見て、商売がえした者もいます。浅草が栄えていたので飲食店の方が儲かると考えた者がいたんですが、そう、手前どもの御先祖のことして、御先祖は実は、江戸時代から浅草で犬の狆(ちん)の、狆屋をしておりました。当時の大名家や豪商などは、ペットとして狆を飼う習慣があったんですね。現代でも犬を可愛がる方がおいでですが、狆もたいそう可愛がられたそうで、狆の墓があったりする位です。その狆の、良い血統を、手前どもの御先祖が押さえていたようでして、現代風に言えば、狆のブリーダーですね。そして、売った狆の具合が悪くなれば獣医として治療したりもしていたようです。

その狆屋が、明治時代になりまして、すき焼き屋(牛鍋屋)に商売変えしました。理由を書いた書類はありませんので、想像するのみですが、犬の趣味が変わったことが大きいのでは、と私は思っています。天下泰平の江戸時代には可愛いペットが愛されまして、特に狆を飼うのはお旗本の奥方とかでしたから、狆は女イメージの犬でした。ところが、続く幕末・明治は戦争や政争が続く騒乱の時代ですから、世の中の犬の趣味が変わりました。上野の西郷さんは犬を連れていますが、狆ですか?違いますね。西郷さんは猟犬を連れて、野山を歩き回るのが趣味だったようですが、そういうワイルドな世相の時代に狆は可愛い過ぎで、かつ旧時代のイメージに見られたと思います。要するに、時代が変わって、商売としての「狆屋」の将来性が脅かされましたから、手前どもの御先祖は、狆を捨てて、牛鍋に走ったものと思います。全盛時代の浅草に店を構えているのですから、狆屋をやるより、飲食店の方が儲かると考えたのだと思います、あくまで想像ですが。そんな経緯で、浅草にすき焼き屋が多いのです。

では、つぎび「ちんや」はどのような肉をお出ししているのか、それから、なんでまたそういう肉をお出ししているのか、つまり店の方向性のお話ししたいと存じます。

さてまず提供すべきなのは旨い肉です。しかし旨いのは当然で、世の中に旨い肉は結構あります。だから、それでは他の御店さんとの間に差異性が生じにくいですね。それにやたらと原価をかけて仕入れをして、それを良心的に売ってしまっては、ある意味デフレ経済です。良くありませんので、なるべく避けたいです。

時に皆さん、肉を食べて旨かったけどで、後から胃モタレがヒドくて往生した経験はありませんか。モタレて当然です。肉屋に言わせると、モタレて当然の肉が、公然とたくさん売られているのです。

そういう肉を「ちんや」も売って良いのでしょうか?勿論ペケですが、「なんとなくペケなわけ」でなく、そこに「ちんや」が特徴を出せるポイントがあるのであって、さらに申せば、店の理念に照らして、そういう肉を売ってはゼッタイにぺケなのです。

手前共は「思い出を作るすき焼き店」~特に御家族の思い出を作る店である、ということを重要視しております。

誕生日・初参り・七五三・合格・入学・卒業・成人式・就職・寿・出世・退職・還暦・古希そして法事~そういう御家族の思い出の日に「ちんや」を使っていただきたい、と念願しています。で、そういう機会に御家族が集まれば、その中には必ずお爺ちゃん・お婆ちゃんも入りますね。お爺ちゃん・お婆ちゃんにも召し上がっていただく肉だから、モタレてはいけないのです。絶対に。二度と来ていただけなくなります。「ちんや」が①旨くて②モタレない肉を売らねばならない、理由がここにあります。年配の方も含めてご家族で何度も来ていただきたい、それで肉がモタレてはいけなにのです。

どうしてそういう風に考えたかは、<商品としてのすき焼き>について一度考えてみれば分かります。すき焼きという商品の特徴は「生活不要品」、つまり在っても無くてもOKな商品だ、ということです。そう申しますと、そんなことないですよ!すき焼きは立派な食文化ですよ!日本にすき焼きが無くては困ります、という反応がたいてい返ってきますが、それなら税金で補助して貰えるんでしょうかね。貰えませんね。歌舞伎すら松竹さんの民営ですから、すき焼きも民営で頑張る他ないですが、では、さきほど「そんなことないですよ!すき焼きは食文化ですよ!」と言っておいだった人は、果たして頻繁にすき焼きを食べて下さいますでしょうか?そこが、心もとないんです。口で言うのはタダ。FBで「いいね!」するのもタダですが、我々が成り立つためには、時間を作り、予約を入れて、お金を貯めて、わざわざ浅草へ来て下さる人が大勢いないと困るわけです。

だいたい、今時はすき焼き以外にも美味い食べ物がいくらでもありますね。浅草以外にも遊びに行く所はあります。だから「なんか美味いものを食べたいな」という程度の意識のお客様がいるだけではダメなんです。歌舞伎見物が生きがいという方がいますが、同様にすき焼きが無ければ自分の人生真っ暗、という位に、メンタルに入れ込んで下さる方を獲得することが大事だと思います。言い換えれば、その方の人生における必需品の中に、すき焼きを入れて貰わないといけない、と思っております。

はあ、すき焼きを必需品にって、そんなことが出来んの?っていうことですけど、出来なくもないんです、すき焼きには。出来る理由は、すき焼きのイメージです。すき焼きは明治時代と結びついていて保守的なイメージですが、その保守的な感情が、家族で食事をする時の感情と結びつきます。それがすき焼き商売の原動力と思っております。保守的な感情と申しましても「憲法96条を改正したい」とか、そういうことじゃあないんです、勿論。具体的には「正月は家族揃って浅草に初詣に行きたいね」「お参りの後は、すき焼きって我が家は毎年決まってるんだ」というような感覚を「保守的」と言ったわけです。そこに弊店が上手く嵌っていくことが、他の何より大事と思っています。

ところが、です、私はそう願っているんですが、ある年の暮に、ある御家族のお嬢さんが色気づきまして、お父さん、芸能人は正月はハワイに行くのよ、私もハワイに行ってみたい!と言い出しました。何言ってるんだ、お爺さんもお婆さんも、オマエとすき焼きを食べるのを楽しみにしてるんだぞ!えーやだー、浅草とかすき焼きとか、私、前からダサいと思ってたのよ。それに私、英語を勉強したいの!そう言われてお父さん、そうか、英語も習わせないとなあ、ということで、この一家はハワイへゴー、憐れ、お爺さんとお婆さんだけが浅草へ行きました。行きはしたものの、オイ婆さん、オマエと二人ですき焼きじゃあツマラナいなあ。何よ、お爺さん、アタシだってアナタとじゃあツマラナいわよ、今日は帰りましょう!あららら~っていうことにならないようにするのが、浅草のすき焼き屋の、最も大事な仕事です。私は、そう確信しまして、この10年ほど御家族づれ、それも3世代・4世代で「ちんや」へ来ていただくことに努力を集中して参りました。まず弊社の経営理念は「心に残る思い出を!」という文言にしました。弊社は「すき焼きを売るのではく思い出を売る」という次第です。勿論パクりの理念ですけどね、 not computer,but utility の。

具体的には例えば、ですが、「記念日割引」という制度を作りまして、その日は割引率が倍になるんですが、お客様が自分の好きな日を登録できる、というのがミソです。勿論自分の誕生日を登録してもOKなのですが、むしろ多いのは奥様の誕生日とか、結婚記念日とか、お孫さんの誕生日、あるいはご先祖の命日もあります。不祝儀でも良いんです。会社をやっている人は創業記念日を登録して社員さんを連れて見える、というようなパターンがあります。傾向を見ておりますと、男性は結婚記念日を登録なさることが多いですが、女性は自分の誕生日です、ゼッタイに。恐ろしいことですね、はい。

え~何でしたっけ?そう、そう、「記念日割引」という制度の話しですが、この制度の良い点は、どういう理由でお客様が見えたのかハッキリすることです。割引と申しますものは、要求されるとイヤなものですが、記念日割引は「されて嬉しい」割引なんですね。そしておめでたい日であれば、おめでたい趣向でサプライズのサービスが出来ます。そのやり方は、のちほどお話ししようと思いますが、とにかく、個々のお客様の記念日を店が知っている、ということが大事だと思います。何故なら、生活不要品であるすき焼きを、人生の必需品にしたいからです。こうした努力をしつこく続けて行けば、浅草のすき焼きを、その方の人生における必需品に入れていただくことも可能ではないか、イヤ絶対に可能だと確信しております。 

さきほど、記念日の、サプライズのサービスのやり方を「後でお話しします」と言いましたので、次にお話しをしましょう。実は『牛っとハート』という商品名を、商標登録出願中です。商品名と言っても、「ちんや」の、ハート型の牛脂の名前です。すき焼きを始める最初の所で鉄鍋に敷く、あの脂のことです。それに『牛っとハート』という名前を、「ちんや」の社員が命名しまして、商標登録出願中です。

この牛脂をですね、記念日割引のすき焼きに、ご利用いただきたいと思っています。お誕生日に、ご結婚記念日に、還暦・古希のお祝にご利用いただきたいと思っています。不祝儀でも結構なんです、故人様のご命日にもご利用いただきたいと思います。売店でのお買い上げの場合でも差し上げます。この牛脂を使おうと考えた理由ですが、FBやツイッターにUPしていただける、ということも勿論あります。ここは、SNS社会ですので、今後は非常に大事です。しかし、さらに大事な理由があります。なんでしょう、ご説明しますが、日頃、大切な記念日の食事でも、そのことを店のスタッフには知らせない方が大勢おいでです。まあ、他人に知られたくない気持ちは分かります。でも、店の人間は知らせて欲しいんですよね。この「牛っとハート」が欲しいが為に、「実は、今日がカノジョとの「おつきあい1周年」なんです・・・」とか教えてくれたら嬉しく、在り難く思いますよね。そう、この牛脂を使う、本当の目的は、働く者のモチベーション向上です。そう位置づけています。

実は牛脂をハート型に成型する技術自体は、そんなに難しいことではありません。以前にも誰かがやっていたかもしれません。しかし私ほど、このハート型牛脂に執着して、商いの根幹に据えようと考えた者はいないと思います。すき焼きという料理は、人のハートと人のハートが触れ合う席で食べる料理で在って欲しい、そういう私の心底からの願いを、この商標が象徴しています。だから、以前に試した誰かと私を区別したいです。区別するためには、①名前を付けること、②その名前を天下に公表することが必要だと考えました。で、商標登録なのです。この話しを聞いて「下らない!」と感じた方もおいででしょう。しかし、私はこういうことが大事だと断言いたします。何故なら、すき焼きという商品は売り易くない、しかしすき焼きの思い出という商品は結構、売り易い、からであります。この牛脂を今日も使ってたべていただきます。その「牛っとハート」をこれからお出しします。誰か一人でも、今日は誕生日とかなんかの記念日、という人がおいでだと良いんですけど、いませんか?いませんか。まあ、良いでしょう。

実際の問題としては、お客様にリピートしていただく、それも10年に30回、20年に60回、30年に90回といったペースでリピートをしていただく、ということを目指しております。浅草はそれが可能なんです。浅草と上野の間には寺町があってお墓がありますから、そこへ正月、春のお彼岸、お盆、秋のお彼岸と多くのご家族が通って来ます。春には墨堤の桜が咲きます。是非ともそういう機会にリピートをしていただきたいと思っています。30年の間にはお爺さんが亡くなるかもしれません。しかしリピートは終わりません。30年の間に、お孫さんが成長して結婚して⇒そこにお子さんが生まれて、つまりかつてのお父さんがお爺さんの位置に上がりまして、新たな3世代が揃って「ちんや」へ来て下さいます。人間の個体の単位で考えれば、お爺さんは死んじゃったんですから二度とリピートできませんが、家族単位ではリピートできるんです。生まれたお子さんにモノ心がついたら、今度のお爺さんつまりかつてのお父さんから聞かされるでしょう、オマエの曾爺さんの代から、ウチの家族はこの店に来てるんだぞ!って。それが弊店の理想形であります。すき焼きという料理は、そういう料理であるべきだ、と私は信じておりますので、だからこそ、「ちんや」の肉は、モタレてはいけない、と思うのです。

なるほど!では、そのモタレない肉ってどうやって作るんですか?!という話しを、いよいよお教えしますが、「モタレない」とは、どういう状態のことを言うのでしょう。

二つ条件があります・・・

① 肉の中にアミノ酸が多いこと

② 脂肪の融点が低いこと

分かりにくいと思いますので、非常にザックリとお話ししますね。

肉を熟成させると、肉の中のタンパク質がアミノ酸に変わります。分子が小さくなるのです。分子が小さいので、消化しやすく、そしてアミノ酸は旨みの元でもありますので、味も旨いのです。食べものの世界では、一般に分子の大きいものは美味しくなく、小さいのが美味しいのです、ザックリですが。

アミノ酸を作るのは牛の体内の酵素です。その働きで自然に置いておくだけで、そうなります。もっとも「自然」と申しましても0℃~2℃です。常温で置いておけば、熟成は速く進みますが、品質がいたんでしまいます。だから冷蔵するわけですが、冷蔵すると望ましい熟成度合に成るまで、およそ一か月を要します。

そう、皆さんが今日召し上がる肉は、一か月前に亡くなった牛の肉なのです。ここがスーパーの肉と「ちんや」の肉が大きく違う所です。

スーパーの肉は一か月ではなく、4~5日目に売られています。商品回転率を高めたいから、そうしているのですが、それでは旨くもなく、かつモタレます。赤身ならモタレない、と思っておいでの方が多いですが、違いますので御注意下さい。今日は、その違いを体感していただきます。

もう一つの条件「脂肪の融点」についてもお話ししましょう。牛の脂肪の融点は、他の動物の肉の融点より、一般に高いです。だからモタレるのです。しかし、どの牛も同じなのではなく、育て方によって、融点が低い脂肪にすることが出来るのです。本日出される牛の脂肪は、部屋の温度で置いておくと、だんだん融けてきますが、それが望ましいのです。それが消化しやすい脂肪です。外見上脂が少ない肉でも、融点が高ければモタレますので、ご注意願います。さて、その脂肪の融点を、牛を屠殺した後に我々が変えることは出来ないので、肉屋の仕事としては、脂肪の融けが良い牛を選ぶことが大事です。選ぶことつまり所謂「目利き」です。

そして「ちんや」の職人は、一瞬指で肉を触るだけで、その「目利き」をすることができるのです。脂肪内部の飽和脂肪酸と不飽和脂肪酸の比率が変わると、融点も変わるのですが、そんなことを、分析器で測定していたら時間がかかって仕方ないです。

一方「ちんや」の職人は、一瞬触るだけで「目利き」できます。そうできるのは、職人としてキャリアを形成してきた、長い人生の時間が指に乗っているからです。

以前、陶芸の人間国宝・浜田庄司先生は、たった15秒で、大きな器に釉薬を流し掛けました。そして、そのことを「15秒プラス60年」という、有名な言葉で表現しました。

15秒とは実際に釉薬を流し掛ける時間、そして60年とは陶芸家としての鍛錬のために費やした長い歳月を意味していました。同じことが肉の職人にも言えると思います。

・熟成に一か月

・脂肪の目利きに「15秒プラス30(60)年」

①旨くて②モタレない肉を提供するため、これだけの時間がかかります。しかし時間をかける価値はあります。「思い出を作るすき焼き店」~特に御家族の思い出を作る店

しかも、何世代にも渡って、「思い出を作るすき焼き店」そう在り続けたいと思えば、時間をかける価値があります。ローマは一日にして成らず、と申しますが、旨い肉も一日にして成らず、なわけです。以上は肉に関する考え方の御説明でした。

さて、「観光」とか「ガイド」ということについて、今回のご依頼があってから、私も久しぶりにつらつら考えてみましたので、最後にその話しもしておこうかなと存じます。

ここはボヤキです。さて「東京観光」、ですが、未だ黎明期と言えると思います。東京都が観光誘致に力を入れ始めたのは、ごく最近のことです。まず2002年の、サッカーのワールドカップ日韓共催の時に、受け入れ体制の不充分さが指摘され、2003年東京観光財団設立。やがて国全体でも2006 年に「観光立国推進基本法」が制定されました。力を入れ出したのは、その辺りからです。TCGCさんがNPO法人の認可を獲ったのも2007年とお聞きしております。

その後スカイツリー開業やオリンピック招致やらで勢いを増していますが、「東京観光」は未だ黎明期を抜けていないと思います。もう少し平たく・分かりやすく申せば、「遅れている」のです、東京観光は。

他の観光地で以前から指摘され続けている、「マス・ツーリズムの弊害」が、今東京観光に該当している、と断言しましょう。弊害ツーリズムの行先が東京に代わっただけです、ハッキリ申して。だいたい、「旅行業」って、なんであんなに不勉強でも開業できるんでしょうか。

しかしそれなのに、何しろ大量の送客をしてくる取引先なので、地元受け入れ業者の皆さんが、あの連中の都合に合わせてしまいがちです。嘆かわしいです。極端な短時間で客に食事をさせようとする業者が実に多いです。1卓にビールを3本ずつ、事前に栓を抜いて置いておけ、とか言って来る輩も多数。麦を育てている生産者の方のことを、少しでも考えたことがあるんでしょうか。それを弊店が拒否すると、すぐさま紛争の種と成りますので、私がいちいち交渉に乗り出すハメになります。ああ、メンド臭。でも、いつでも絶対妥協せず、そういうことでしたら、今からでも御予定を変えていただいて、余所の御店にいらしていただいて結構ですよ!浅草には良い御店がいっぱい在りますからね!と脅迫致します。旅行の前日の話しですから、困るのは先方ですからね。だってですよ、お客様の楽しみが優先ですからね。そういう言い分を、私は聞きません。この現象は「マス・ツーリズムがもたらす観光地の疲弊」と説明されるようです。曰く、「多量に観光客をさばくには、必然的に専門的事業者たる旅行代理店等を介在する必要がある。」「送客側の立場が相対的に強くなり、その要求に合わせた設備投資や手数料の支払い・販売促進協力金負担などの商慣行から、観光地の事業者の疲弊が見られる。」とも説明されるようです。

誰が本当の御客様で、何が御客様の本当の楽しみなのか、考えないからそう成るんです。

さらに申せば、ネットの普及によって、「ネット受けの良い」事業者だけが流行る現象も起きていますね。そんな御時世ですから、私は大いに期待してます、ボランティアガイドの皆さんに。ご活躍いただきたく、お願いを申しておきます。

本日はありがとうございました。

<やっと終わりました。お疲れ様でした、ヒマな皆さん>

追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は361人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.245日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

シャイな男たち

久しぶりに「すき焼き思い出ストーリー」のサイトに投稿がありました。

お題は『シャイな男たち』。

まんぼうさん(東京都 43歳)から頂いた投稿です。

「思い出ストーリー」は圧倒的に、ご家族の思い出に関する話しが多いのですが、この話しは職場の送別会の話しでした。

これも思い出深いストーリーですので、ここに転載しました。是非お読みください。

<以下本文>

11年前、浅草のシンボル的な会社に派遣社員として勤めていた私は、会社の都合で退職をすることになりました。

部署の方々は、全員男性で普段あまり話さない方々。ひそかに「私嫌われているのかな~」なんて思っていたのですが、皆さんがちんやさんで私のために送別会を開いてくださると聞いた時はびっくりしました。理系の方々で単にシャイなだけだったみたいなんです。

美味しいお酒やすき焼きを囲んで、和やかなムードになったようで、皆さん、会社にいらっしゃる時とは別人のようにいろいろと話しかけてくださり、とっても優しい方々だとわかりました。私も人見知りをするほうだったので、勇気を出して私から話しかければよかったと後悔。

ちんやさんの優しいすきやきの味と部署の皆さんの優しさにポロポロと涙が出てしまいました。

私が会社を去る日、部署の皆さんは正社員の方が異動するときと同じように、全員でエレベーターまで見送ってくれました。

あれから11年。皆さんどうしていらっしゃるかな~と懐かしく思い出します。

あの時の皆さんと一緒にまたちんやさんでいろいろなお話ができたらいいな・・・

<ご投稿ありがとうございました。こういう話しこそが店の財産だと思っています。>

追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は361人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.244日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

Filed under: すき焼きフル・トーク,今日のお客様 — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)

東京観光

「東京シテイガイドクラブ」(TCGC)という、ボランティアで東京ガイドをする皆さんを相手に、講演をすることになりました。

この皆さんは、まず「東京シテイガイド検定」という、なかなか難しい試験に合格し、さらに、個々に古典芸能文学・神社仏閣・美術・商店街・産業観光といった専門分野を持ち、さらにさらに英語・各国語での案内も請け負う、という素晴らしい皆さんです。

今回私がお話しするのは、その内の勿論「グルメ専門グループ」の皆さんです。

さて、そういう次第で、「観光」とか「ガイド」ということについて、私も久しぶりにつらつら考えてみました。

さて実は、「東京観光」は未だ黎明期と言えます。東京が観光誘致に力を入れ始めたのは、ごく最近のことです。

まず2002年の、サッカーのワールドカップ日韓共催の時に、受け入れ体制の不充分さが指摘され、2003年東京観光財団設立。やがて国全体でも2006 年に「観光立国推進基本法」が制定されました。

力を入れ出したのは、その辺りからです。TCGCさんがNPO法人の認可を獲ったのも2007年とお聞きしております。

その後スカイツリー開業やオリンピック招致やらで勢いを増していますが、「東京観光」は未だ黎明期を抜けていないと思います。

もう少し平たく・分かりやすく申せば、「遅れている」のです、東京観光は。

他の観光地で以前から指摘され続けている、「マス・ツーリズムの弊害」が、今東京観光に該当している、と断言しましょう。弊害ツーリズムの行先が東京に代わっただけです、ハッキリ申して。

だいたい、「旅行業」って、なんであんなに不勉強でも開業できるんでしょうか。

しかしそれなのに、何しろ大量の送客をしてくる取引先なので、地元受け入れ業者の皆さんが、あの連中の都合に合わせてしまいがちです。嘆かわしいです。

たびたび弊ブログで指摘しておりますが、極端な短時間で客に食事をさせようとする業者が実に多いです。

1卓にビールを3本ずつ、事前に栓を抜いて置いておけ、とか言って来る輩も多数。

麦を育てている生産者の方のことを、少しでも考えたことがあるんでしょうか。

それを弊店が拒否すると、すぐさま紛争の種と成りますので、私がいちいち交渉に乗り出すハメになります。

ああ、メンド臭。でも、いつでも絶対妥協せず、

そういうことでしたら、今からでも御予定を変えていただいて、余所の御店にいらしていただいて結構ですよ!浅草には良い御店がいっぱい在りますからね!

と脅迫致します。

旅行の前日の話しですから、困るのは先方です。ひひひひ。

だって、お客様の楽しみが優先ですからね。業者風情の言い分を、私は聞きません。

この現象は「マス・ツーリズムがもたらす観光地の疲弊」と説明されるようです。曰く、

「多量に観光客をさばくには、必然的に専門的事業者たる旅行代理店等を介在する必要がある。」

「送客側の立場が相対的に強くなり、その要求に合わせた設備投資や手数料の支払い・販売促進協力金負担などの商慣行から、観光地の事業者の疲弊が見られる。」

とも説明されます。

誰が本当の御客様で、何が御客様の本当の楽しみなのか、考えないからそう成るんです。

さらに申せば、ネットの普及によって、「ネット受けの良い」事業者だけが流行る現象も起きていますね。

そんな御時世ですから、私は期待してます、ボランティアガイドの皆さんに。

追伸①

「ぴあMOOK 旨い肉 2014 首都圏版」

~感涙必須の旨い肉200軒 に「レストランちんや亭」の、ハンバーグとサイコロステーキを載せていただきました。

ご購入は、こちらです。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は353人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.230日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

 

Filed under: 今日のお客様,困った質問 — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)

親孝行

知人から嬉しいメールが届きました。

実は、その知人の御父上が最近定年退職されました。そこで社会人3年目の彼が、父への慰労会を、ごく御身内の顔ぶれですが「ちんや」で開催した、という次第です。

「先日は、いろいろとご配慮頂き、誠にありがとうございました。

両親も非常に喜んでおりました。

初めて親孝行らしい親孝行ができました。

重ね重ね御礼申し上げます。」

在り難いですね。実に料理屋冥利に尽きます。

すき焼き屋のベネフィットの一つに「親孝行」が在るのだなあ、とあらためて気づかされます。

しかも「初めての、親孝行らしい親孝行」です。

「ちんや」は基本的には年配の方が支払いをなさるケースが大半ですが、若い方でも今回のようなケースで、会食の主催者に成ることは、ありえますね。

世間には「ウチの客層は〇歳代~△歳代で、年収は×百万円位」とか決めて営業している店が多いようですが、私は、そういう考え方を採りません。

「ちんやの客層」は「親孝行をしたい若い方」。

「親孝行をしたくない若い方」は「ちんやの客層」ではない。

それで結構と私は思っていますが、その話しは今日はさておきまして、

今年就職なさった皆さん、6月末はボーナスの支給日ですが、この日に皆さんは「人生初ボーナス」を受け取ることになりますね。

「初めての、親孝行らしい親孝行」のプランは出来てますか?

就職して3か月ですから当然少額でしょう。カノジョは、この際後まわしにしましょうね。

追伸①

空調設備を更新しないといけなくなりました。

夏になる前に工事しないといけませんので、下記の日は休業いたします。御諒解賜りたく、お願い申し上げます。

平成25年6月24日(月)~27日(木)

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は353人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.209日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

Filed under: すき焼きフル・トーク,今日のお客様 — F.Sumiyoshi 12:00 AM  Comments (0)

大誤報

大阪のハシモトさんが、

言葉を切り取られて、大誤報をやられた!

と怒っていましたね。

私が見聞きします所でも、言葉を切り取られることは、実際多いと思います。

最近多いのが、

円安とスカイツリー効果で外人観光客が浅草に押し寄せて来てますよね?!

という誘導尋問です。

そうですねえ、まあ、来てることは来てますかね~

と私が答えますと紙面上では、

「円安とスカイツリー効果で外人観光客が浅草に押し寄せて来ている」と老舗すき焼き店「ちんや」の六代目店主・住吉史彦さん(48)は語った」

という文になります。随分景気が良さそうに見えますね。

最初から文脈が決まっていて、そこに嵌る文章が必要なのでしょう。

それなら、わざわざインタビューに来なくても、

こういう文を住吉さんの名義で載せたいですけど、良いですかね?

と最初から言っていただいた方が話しが速いですな。

だいたい私はですね、こう見えても、観光業の盛衰が外部要因にばかり左右されるのが残念なことだと思いまして、内部要因=自分の店の魅力で集客することを何より優先して来ました。

このブログも、まあ、その一環です。

でも、世間から見たら、観光業などと申しますものは、トレンドやら為替やらで流行りも廃りもする、浮草のようなものに見えるのでしょうね。

たまにイラっとしますが、もう慣れました。

大誤報、どうぞ気楽にやっちゃって下さい。

 

追伸①

「浅草法人会」さんの主催で講演会をさせていただくことになりました。

<演題>すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に

<日時>7月2日(火曜)17時受付開始⇒17時30分~19時頃まで

<場所>浅草文化観光センター5階(台東区雷門2-18-9)

<定員>60名様(早めにお申し込み下さい)

<参加資格>どなたでも(=浅草法人会会員でなくても)参加できます。

<参加費>なんと、無料。

*参加の手続きはこちらです。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は351人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.197日連続更新を達成しました。

1.200日が近づいてまいりました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

 

 

Filed under: ぼやき部屋,今日のお客様 — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)

佐渡の金賞酒

「料飲三田会」の総会が「ちんや」で開催されました。

私は会の会計担当でもあるので、店の主人役に加えて、決算報告・予算の説明・領収書づくりもするわけで、当然ハードでした。

でも、この会の会合を自分の店でやっていただけるのは大変光栄なことですから、ハードだからと言って断る手はありません。

有り難くお請けいたしましたところ、業界の大先輩方が集まって来ました。

さて、今回の宴会のメインテーマの第一は御酒でした。

佐渡の尾畑酒造さんは私の同期で、「料飲三田会」の会員でもありますので、彼女に頼んでスペシャルなものを出していただきました。

・本年度新酒鑑評会金賞受賞酒

・「ワイングラスで美味しい日本酒アワード」金賞受賞酒などなど、デザート用まで。

「ワイングラスで美味しい」というからには、勿論ワイングラスで飲んでいただきました。ワイングラスは、ぐい呑みより酒の香気を楽しめます。

ワイングラスを多数使うと洗い物が大変なんですけどね、洗い場さんには頑張って貰いました。

さらに!燗酒は座敷の中で土鍋を使い湯煎で燗つけしました。

やはり湯煎は良いものです。温度を好きに調整出来ますし、土鍋は風情もあって楽しいです。

実は「座敷で土鍋で燗」はマイブームでして、実際の問題としては営業用には、かなり実現しにくいので、こうして自分が参加する宴会で、半ば趣味のようにやっています。

さて、二番目のテーマは消化酵素とデトックスです。

え、肉じゃないのか、って?

まあまあ、肉も旨いものを出しましたよ。でも、それは当然ですから。

旨い肉でも、御自宅に帰ってからモタレたり、翌朝出るものが出ないと困るんです。それに、「料飲三田会」は人生の大先輩が大勢見えますので、消化酵素とデトックスは重大なテーマなんです。

と、いうわけで消化酵素として「口がわり」の「パインのマリネ」。

先付の1点の「牛モモ肉みぞれ和え」の「みぞれ」には、パパイヤ・マンゴーを加える、といった感じです。

デトックスには、やはり野菜ですから、変わりザクが必要です。

熊本の「早獲り蓮根」、それに、

少し時期が早めですが、賀茂茄子をすき焼きに入れていただきました。

皆さん、食後の感じはどうだったのでしょう。

狙い通りに行っていれば嬉しいんですが、結局佐渡の御酒を通院イヤ痛飲。二次会の向島にまで繰り出しましたから、こういう細かい仕事の成果は行方不明だったかもしれませんね。

でも、まあ、いいんです、皆さん、喜んで下さったようですし、私も楽しかったですから。

う~い、ひっく。

以下は献立です。ご参考まで。

先付け① 馬鈴薯豆腐の銀餡かけ、サイ巻海老など

先付け② 牛モモ肉みぞれ和え、パパイヤ、マンゴー(消化酵素)など

前菜   

 浅草揚げ(本物の浅草海苔を使用)、

 味噌姫栄螺、

 蛍烏賊自家製スモーク、

 小芋雲丹焼、

 万願寺揚げ浸し

すき焼き肉 

 黒毛和種、雌、個体識別番号:1334603752、

 家畜改良事業団広島産肉能力検定場産

 平成22年8月28日生まれ⇒25年4月17日と畜

 肥育32か月、熟成6週強 

ザク 

 葱(千住葱)、

 豆腐(「市川食品」浅草)、白滝(同)、

 春菊(宮城県)、

 椎茸(群馬県)、

 江戸麩

変りザク 

 初獲り蓮根(熊本県)、

 賀茂茄子(京都府)

口がわり パインのマリネ(消化酵素)、

デザート 杏仁豆腐

日本茶  増田園総本店(浅草)  

<献立終わり>

追伸①

「浅草法人会」さんの主催で講演会をさせていただくことになりました。

<演題>すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に

<日時>7月2日(火曜)17時受付開始⇒17時30分~19時頃まで

<場所>浅草文化観光センター5階(台東区雷門2-18-9)

<定員>60名様(早めにお申し込み下さい)

<参加資格>どなたでも(=浅草法人会会員でなくても)参加できます。

<参加費>なんと、無料。

*参加の手続きはこちらです。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は351人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.191日連続更新を達成しました。

1.200日が近づいてまいりました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

 

 

 

 

 

 

大東京繁昌記

知人の編集者氏が、すき焼きを食べに来てくれたのですが、

最近この本を出しまして・・・

と差し出された御本を見て、

あれ!

と思ってしまいました。その本の挿絵の原画を、先日展覧会で観たばかりだったからです。

その御本とは『大東京繁昌記 下町篇』(講談社文芸文庫)です。

この中の「大川端」の項の挿絵が、木村荘八の作でして、その展覧会を観て来たことは、このブログの4/27号に書きました通りです。

絵の作者・木村荘八(きむら・しょうはち)のことをあらためてご紹介しますが、洋画家・荘八は明治26年(=1893年)に東京・両国広小路の牛鍋店「いろは牛肉店」第八支店に生まれました。

荘八の父・荘平は、当時日本最大の牛鍋チェーン店「いろは」を経営し、「いろは大王」と言われた人物でした。

多数の愛人・妾がいて、東京市内20箇所にのぼる支店に、その愛人をそれぞれ配置して経営にあたらせたことが有名です。

画家になった荘八は、その妾腹の第八子なのです。

荘八は、やがて浅草に在った第十支店の帳場をまかされますが、画業の夢を断ちがたく、帳場をしながら絵も学び、やがて画家として成功します。

その荘八の、生誕『生誕120年展』が、東京駅の「東京ステーションギャラリー」で5/19まで開かれていて、『繁昌記』の挿絵の原画も展示されていました。

その絵の入った本を、知人が編集していたと知り、まったくの偶然なのですが、とても驚いた次第です。

肝心の内容ですが、

「関東大震災から四年、復興へと邁進する帝都・東京の変貌する姿と、いまだいたる所に残された災害の傷痕を、当時を代表する文豪、画家たちが活写した名随筆」で、昭和2年に「東京日日新聞」で連載されたものを復刊したものです。

文は芥川龍之介、泉鏡花、北原白秋、吉井勇、久保田万太郎、田山花袋といった下町ゆかりの文豪達。

木村荘八の「大川端」の部分の文は、吉井勇です。

ご購読はこちらからどうそ。

追伸①

「浅草法人会」さんの主催で講演会をさせていただくことになりました。

<演題>すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に

<日時>7月2日(火曜)17時受付開始⇒17時30分~19時頃まで

<場所>浅草文化観光センター5階(台東区雷門2-18-9)

<定員>60名様(早めにお申し込み下さい)

<参加資格>どなたでも(=浅草法人会会員でなくても)参加できます。

<参加費>なんと、無料。

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 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は351人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.188日連続更新を達成しました。

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