日本一の履物街
「ちんや」の新しいスタッフさんに、
花川戸って、なんでいつから履物街なんですか?やはり歌舞伎の影響なんですか?
と質問されました。
浅草にかつて歌舞伎界があり、それが履物街の成立に関係していることをご存じとは良く勉強してくれました。良い見立てと思います。プラスして、近代に入ってからの皮革産業(靴業界)の発展が履物街の成立に関係があります。
まず歌舞伎界の件ですが、天保12年(1842)年、水野忠邦は、当時の江戸を代表する三座中村座・市村座・森田座を、江戸の中心から離れた浅草猿若町へ移転させました。役者や関係者も移住させました。いわゆる「天保の改革」ですね。
浅草猿若町とは現在の浅草六丁目。新「ちんや」とは言問通りをはさんで反対側の一角です。
『花川戸今昔』にも、花川戸には鼻緒の製造家が集まったと書かれています。それが明治時代初期まで。
次いで近代的な皮革産業が台東区北部で勃興します。
きっかけは軍需でした。私は日清・日露戦争の軍需が皮革産業を成長させたものと記憶しておりましたが、『花川戸今昔』によれば第一次世界大戦だったようです。
「大正3年には、ロシア政府から膨大な軍需向け皮革製品の注文が飛び込んだ」とあります。
その10年後、大正12年の関東大震災で花川戸履物街も被災しますが、長い目で見ると、震災は履物街にはプラスだったかもしれません。東京が焼け野原になり復興する過程で人々の生活は洋風化し靴の需要が増えたので、皮革産業は売り先を軍需から民需に替えて、さらに発展したのです。
その後昭和の戦争で再び軍需の時代、再び焼け野原を経験。
次いで戦後の靴や履物はケミカル素材に転換しますが、その時代も花川戸履物街は「日本一の履物街」の地位を維持しました。
以上がザックリではありますが、履物街の歴史です。覚えておきたいものです。
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