盛り場
緊急事態が明けました。
観光地・浅草をどうするのかという議論が行われないといけない状況だと思います。
が、そもそも浅草は「観光地」なのか、と申しますと、明治・大正・昭和の浅草は、観光地というより「盛り場」という感覚であり、この時代の浅草がおそらく歴史上一番面白かった時代だと私は思います。
私は、すき焼き屋という明治時代に起源のある店に関わっていますので、明治の浅草の面白さを皆様に伝えるのも自分の一つの役割と思わないといけないのですが、もろもろの用事にかまけて出来ていないのは申し訳ないことだと思っています。
一応、このブログでそうしたことを書いてみたり、明治時代の「開化絵」を集めて店に飾り、ネット(こちら)でも公開しておりますが、まだまだ足りないと思っています。
以下は言い訳ですが、明治・大正・昭和の浅草の面白さを伝えるのは、少し難しいです。
その理由は、
・当時の浅草の実態は、現代日本人が浅草について抱いている「江戸情緒の町」というイメージから、かなり離れている。
・当時「浅草らしい」ことばかりが行われていたわけではない。むしろ新奇なことが行われることも多かった。
・今日の価値観に照らすと「好ましくない」ことも、盛んに行われていた。
例えば、大正初期の浅草で一番人気があったのはオペラでした。「浅草オペラ」と呼ばれています。
オペラとはもちろん西洋のクラシック音楽のオペラ。まったく、江戸の町らしくも浅草らしくありませんが、観衆は熱狂的でした。劇場にファン(当時「ペラゴロ」と呼ばれました)が入り過ぎて、一人の「ペラゴロ」が二階から一階に落下、「人が降って来た」と話題になりました。
「ペラゴロ」は、今日のアイドルの「追っかけ」に似ています。その非常識ぶりが、当時の日本で始まったばかりのイエロー・ジャーナリズムの恰好のネタになりました。
「浅草オペラ」の根本は西洋のオペラですから江戸の町らしくも浅草らしくもありませんが、一部浅草らしいところもありました。それは歌詞が日本語だったことです。これで格段に親しみ易くなりました。
そして、ここからがさらに浅草らしい点ですが、次第に翻訳以上の改変もされて行ったのです。
「ベアトリねえちゃん」という一曲があります。スッぺ(1819年~1895年)作曲のオペレッタ「ボッカチオ」の中の一曲で、「浅草オペラ」で盛んに歌われた歌です。
これはベアトリーツェという名前の登場人物の娘について歌った歌ですが、長い名前で親しみにくいですね。「ねえちゃん」を付けた方が親しめますね。
オッフェンバック(1819年~1880年)のオペレッタ『ジェロルスタン大公妃殿下』ではタイトル自体が変わって『ブン大将』に成ってしまいました。「大公」は親しみづらく「大将」なら親しめますからね。
外国語の歌詞を日本語に訳すと、音楽に載せにくくなることが良くありますが、そういう場合は、歌詞を変えてしまいました。
逆に音楽を、日本語の歌詞に合わせて変えてしまうことさえありました。
西洋のオペラを採り入れながら、「原典に忠実に」という西洋の精神は採り入れなかったのです。ここは浅草らしいと言えるかもしれません。
が、この「浅草らしさ」は伝えにくいです。「浅草らしくないのに浅草らしい」ということですから、少ない文字数では伝えにくいです。
つぎに、今日の価値観に照らすと「好ましくない」ことですが、例えばストリップがあります。
戦後1950年代の浅草で一番人気があったのはお笑いですが、そのお笑いはストリップ小屋でストリップ・ショーの合間に上演されていました。
ストリップと聞いて今日のアダルト・ビデオと同じと思ってはいけません。パリの「ムーランルージュ」を目指した本格的なショーで、パリに留学経験のある永井荷風も好んで観ました。座付き作家は無名時代の井上ひさしでした。
踊り子がバストを露出していましたから、「猥褻」に入ってしまうかもしれませんが、現代のAVと比べれば、当時のショーは美しいとすら言えます。
このショーの副産物=踊り子を休ませるために合間に上演されていたお笑いが、後にテレビ業界の中心になって行きます。
ストリップを観に来た客を笑わせるのは大変難しく、それが出来る、才能のある芸人だけが生き残って人気を集めました。代表するのは「コント55号」や「ツービート」です。井上ひさしは「ストリップ界の東京大学」と言って、ここに集まった芸人の才能を称えました。
1960年代にテレビ産業が勃興した時、ここにいた芸人たちが浅草からテレビに移籍して、業界を支えるようになったのです。
もう少し前の浅草の「好ましくないもの」と言えば、見世物小屋がありました。当時は動物の見世物や、障害のある人間さえ見世物にしており、好ましくないものだらけだったとすら言えます。
そして、この「好ましくない」感覚は私個人の個人史の中で一つの問題になりました。
浅草小学校で私は下手に成績が良かったものですから、優等生として扱われました。で、ストリップ、観に行きてーなー!
などと発言しづらくなってしまい、後々まで浅草の猥雑文化を愛せなくなってしまいました。これまで明治・大正・昭和の浅草を伝える役割を果たさなかったのは、当時、正直申して好きでなかったからです。
浅草の猥雑文化は、川端康成、永井荷風、高見順といったれっきとした文化人に愛されていて、それがまた浅草の面白さにつながっていましたが、そこに気づけたのは、私の個人史の中では後々のことでした。荷風についても以前は少しおかしい人だと思っていました。
猥雑文化を愛せなかったのには世代的な原因もあります。
私の父(1935年生まれ)のような戦中・戦後すぐ世代の人達の中には、戦争で日本が大敗したのを見て、これからは西洋に学ぼうと考えた人達がいました。
父は西洋のクラシック音楽にとても詳しくなり、私も小さいころから良く聞いていましたから、「浅草オペラ」が歌詞や曲を改変していたことについては言語道断なことと思っていました。
このように猥雑浅草を、正直申して好きでない時期がありました。
そうこうする内、戦前・戦後の知る浅草の先輩方が減ってきました。
江戸時代の浅草を学ぼうという人は少なくないようですが、明治・大正・昭和となると寂しいようです。
これから浅草にはどういう時代が来るのでしょうか。
本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。 弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし、本日は4.041本目の投稿でした。
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