長寿企業の知恵⑦
ネットTV番組『Story 〜長寿企業の知恵〜』に出演させていただきました。
この番組は、創業100年を超える老舗企業の経営者をゲストに招き、長寿企業の経営者が持つ知恵や理念、思いを語る、というものですが、思いがけず好評で嬉しく思っています。
こちらのURLで今でも視聴可能ですなのですが、全長50分と少々長いし、そもそも動画は音が出せる環境でないとダメなので、文字情報が欲しいというご要望をいただきました。以下に公開してまいります。
(長いので15日に分けてUPしています。今日は、その7日目です)
<ナレーション>続いてのテーマは…「決断」これまでに「すき焼きちんや」を襲った過去の苦難や、その壁を乗り越える為に培った知恵、その一つ一つに隠された物語に迫る。
石田「会社にとっての転機、ターニングポイントをお聞かせ下さい」
住吉「第一は狆が売れなくなった明治初期。次に1923年の関東大震災と1945年の東京大空襲。そして私の代になってからは2001年のBSEの問題ですね。」
朝岡「その二つの出来事は、どのような転機となった?」
住吉「浅草は、関東大震災と東京大空襲で二度焼失し、再建を果たしました。二十世紀の前半のごく短期間に焼け野原を二度体験したのが浅草なんです。浅草寺は大震災ではかろうじて焼け残りましたが、空襲では焼けて、浅草神社の社殿だけが残りました。街を再建して、寺を再建してきたんです。」
石田「現存する、浅草の多くの老舗店も同じような経験を?」
住吉「もちろんです。浅草で焼け残った建物は、松屋さんと浅草小学校くらいでしたから、普通の店は、皆まる焼けです。」
朝岡「なぜ二度も店舗を失い、再建することができたの?」
住吉「戦争で浅草寺と神輿が焼けてしまったことは、やはり現代浅草に大きな影響を与えていると思います。街の中心・心の拠り所が失われたことの喪失感は勿論大きく、しかし観音様ご本尊はなんとか焼失を免れたので、再度観音様を中心にお寺を再建することが出来ました。信仰があればお寺が再建できたわけですが、商店も同じことです。店舗は焼けてしまいましたが、人が逃げのびて、その人が信用や技術つまりソフトウエアを持っていれば商いは再建できたのです。
心の拠り所が徹底的に破壊され、自分の店も跡形もなくなった時に、浅草の店主達は諦めませんでした。いや、再建をやり遂げねば悔しくて仕方がないというのが当時の浅草でした。建物がなくなっても、自分達には腕がある、お客様もいる。人の力で伝統を復活させることはできる。そう信じなければ立つ瀬がない。そんな状況を皆が通りぬけて来た、その経験が現代浅草の原点だということを、対談本『浅草は何故・・・』で私は痛切に再認識したのでした。」
石田「社長ご自身にとって、ターニングポイントとなった出来事は?」
住吉「就任翌月にいきなり遭遇したBSE問題ですね。2001年9月10日、BSE の疑いがある牛が日本で初めて発見されました。売上は半分になり3年間回復せず。その後、完全にBSE問題が終結する2009年まで不景気とも重なり業界にとって本当に苦しい日々でした。」
朝岡「どの苦難をどう乗り越えたの?」
住吉「どうせ苦労するのなら『本当にお客様を喜んでもらえる仕事をしたい』と考えるようになりました。“すき焼きが無ければ人生真っ暗”~それ位に入れ込んでくれるお客様を獲得していくことが大事だという考えに至りました」
石田「多くの選択肢がある中で『すき焼き』を選んでもらう為には?」
住吉「ここ15年ほど家族づれ、それも二世代・三世代で『ちんや』へ来てもらうことに努力を集中して来ました。接待需要を捨て『資源を集中』したとも言えます。接待やビジネスマン同士だと『すき焼き業界も改革のスピードを上げた方が良いんじゃないか!』と言い出しかねないですのでね。」
朝岡「『浅草』という土地柄も、そういったお客さんが集まりやすい?」
住吉「はい・・・<この続きは、明日のこのブログで>
追伸
Dancyuさんのお誘いにより、
二子玉川髙島屋の催事「第3回 dancyuフェスティバル~dancyu×高島屋 グルメの祭典~」に出店しています。もちろん「適サシ肉」を販売しますので、お近くの方、どうぞお立ち寄り下さい。
会場:玉川髙島屋本館6階催場
会期:10月25日(水)→30日(月)
営業時間:午前10時~午後8時
本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて2.801日連続更新を達成しました。 すき焼き「ちんや」六代目の住吉史彦でした。
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