いわき民報
単行本『浅草文芸ハンドブック』については弊ブログの2016年9月19号に書きましたが、その著者・能地克宜先生(いわき明星大学准教授)が拙著『浅草はなぜ日本一の繁華街なのか』について、「いわき民報」に書評を書いて下さいました。やや長いですが引用しますと・・・
「出版時評」
2013年から3年近くもの間、東京・浅草について調査してきた。この間、数多くの浅草にまつわる文献をあさり、何度も浅草に足を運んで歩き続けたのである。いつ浅草を訪れても街は人であふれ、活気に満ちているのだ。
浅草の魅力はどこにあるのか、浅草を歩くということはどのような意味があるのか。このことについて主に文学を通して考察し、筆者も編著者として携わった書物が刊行されることとなった(『浅草文芸ハンドブック』勉誠出版)。この『ハンドブック』は、専ら浅草を訪れて歩く者の視点に立って編んでいるが、その編集過程で出会った住吉史彦『浅草はなぜ日本一の繁華街なのか』(晶文社、2016年2月)は、浅草に人々を訪れさせ、人々を歩かせる側の視点でその魅力を追求している点で、好対照をなしていると言える。
『浅草はなぜ日本一の繁華街なのか』は、すき焼き「ちんや」六代目の店主である著者が、9人の浅草の老舗店主と対談し、著者のコメントをまとめるという構成をとっている。「まえがき」にも記されているように、浅草はこれまで天災、人災と何度も衰退の時期を経験しながら、それらを乗り越えて現在に至っている。そうした再興に向けてどのようなことをしてきたのか、あるいはどのようなことをしてこなかったのかについて、それぞれの店主が、自らの経験を語っている。
以下、筆者の関心に沿ってその一部を紹介してみたい。
終戦後の闇市で同業者が次々に生活に必要な物資を売る店へと転じる中で、先代が「不器用で融通が利かなかった」と語る木村吉隆氏(江戸趣味小玩具「助六」五代目)は、それによって職人を手放さなかったことが、かえって現在浅草に唯一江戸趣味小玩具店として残っている目的の一つだという(「第一話・世界に唯一の「江戸趣味小玩具」の店」)。
江戸前鮨「弁天山美家古寿司」五代目内田正氏もまた、先代の「時流に逆らって忍の一字で凌ぐ」という選択が老舗の維持につながったと言う。1960年代に冷蔵庫が普及し生鮮食品の流通が広がる中、「うちは仕事をした鮨ネタを売る店だから、よその店のようにする必要はないという姿勢」を貫いてきたのだ(「第二話・江戸前鮨に徹した仕事」)。
著者は洋食「ヨシカミ」二代目熊澤永行氏に「六区の興行街が寂れた最悪の70年代に、なぜ浅草にとどまろうとされたんでしょうか」と質問する。熊澤氏は以下のように答える~外食産業がばーっと広がった時期だったので、「一緒になってほかの店と同じことをやったら、資本力でうちは絶対負ける。対抗するには、平行線で頑張ってやろう。あっちが多店舗展開するなら、うちはここ浅草でずっと頑張ってやろう」と性根を変えたんです。「浅草に行けばヨシカミがある」っていうのを特色にしようと。「ヨシカミ」もまた人々が現在浅草を訪れる理由の一つになっていることは周知の通りであろう(「第八話・ごはんにも日本酒にも合うのが洋食」)。
これらの店主の発言は、「被災したりピンチを経験した時に、その場凌ぎをせず、逆にピンチを契機に料理の本質に向かって行った店が、結果として老舗となっている」という著者あとがきに記された言葉に集約される。もちろんこれだけが浅草の街全体の再興に寄与したわけではない。だが、「浅草というところは、昔からいろんなどん底を経験したひとたちがやって来ては、また立ち上がって行った街です」という松倉久幸氏(落語定席「浅草演芸ホール」会長)の指摘に見られるように、何度も危機から立ち上がる力を浅草という街とそこに生きる人々は持っている。
そしてそれが浅草の繁栄の一つの理由であるだけでなく、今も浅草を訪れ、そこを歩く人々にとって一つの魅力になっているのだ。浅草を歩くことは、私たちが学ぶべきものを発見できる機会にもつながるのである。(終わり)
『浅草文芸ハンドブック』については、こちら↓です。
追伸
拙著は好評(?)販売中です。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
題名:『浅草はなぜ日本一の繁華街なのか』
浅草の九人の旦那衆と私が、九軒のバーで語り合った対談集でして、「浅草ならではの商人論」を目指しています。
東京23区の、全ての区立図書館に収蔵されています。
四六判240頁
価格:本体1600円+税
978-4-7949-6920-0 C0095
2016年2月25日発売
株式会社晶文社 刊行
本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて2.622日連続更新を達成しました。
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