鷹場
浅草は「鷹場」でした。
そう言うと???と思われるでしょうが、本当にそうでした。
徳川様の御代、江戸は「郭内」と、その周りの六方面の「鷹場」から出来ていてましたが、
「郭内」とは、お城と、その付属地のこと。
そして「鷹場」とは城から20km圏の郊外のことで、そこでは鷹狩が出来る環境が整備されるべきだとされていました。徳川様が鷹狩を好んだからです。
鷹狩は「生類憐みの令」でいったん廃止になりますが、八代吉宗が復活・整備させました。各方面は、「六郷筋」(東海道沿い)・「中野筋」(甲州街道沿い)という風に名付けられていて、それぞれの筋に「鳥見役」の役宅が置かれました。浅草は、その六筋の内の「岩淵筋」に入っていたのです。
江戸初期にはお城と浅草の間に未だ空き地がありましたが、吉宗の時代には、もう浅草近辺は完全に市街地化していたと考えられます。それでも浅草は「鷹場」に入れられ、鷹場維持の為の課金もされていたと言いますから、迷惑な話しです。
以上は、「ちんや」のお客様で「すき焼き思い出ストーリー」に投稿して下さった夏ちゃん様のご子息からの請け売りです。ご子息は古地理の研究家なのです。
さて、ここで問題なのは、浅草と同じ台東区の上野は「郭内」だという点。そして上野と浅草の境が判然としないという点です。
上野には幕府と密接な関係があった寛永寺があり、その付属地が上野と浅草の間に在ったので、そこまでは「郭内」扱いだったのですが、そういう経緯で境界が引かれたため、境界線は真っ直ぐでなくて、とび出したような部分もあるとかで、線引きが難しいようです。ご子息はその難しい作業に、地理情報システム(GIS)を利用してチャレンジしています。
GISというのは、まあ、言ってみれば昔のカーナビみたいなもんですかね。研究の仕方も世につれ変わるもののようです。
で、ご子息から地元の方にとって「浅草」とはどこまでですか?
と問われ、私は困り果てました。
そ、そうですねえ、やはり浅草神社の氏子の範囲を「浅草」と考えていますねえ。
神社のサイトを開ければ、氏子の領域つまり、神輿が渡って行くエリアが載せられていますから、一度開けてみてはいかがでしょうか?
その程度しか御役にたてずスミマセン。
追伸、
拙著が発売になりました。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
題名:『浅草はなぜ日本一の繁華街なのか』
浅草の九人の旦那衆と私が、九軒のバーで語り合った対談集でして、「浅草ならではの商人論」を目指しています。
四六判240頁
価格:本体1600円+税
978-4-7949-6920-0 C0095
2016年2月25日発売
株式会社晶文社 刊行
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本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて2.239連続更新を達成しました。
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