大和煮缶詰
おお、懐かしい!牛肉大和煮缶詰。
ここで作っていたんですね。
27年を経てようやくやって参りました・・・
私が大和煮を懐かしいと思うのは、デパートでの修行時代に缶詰売り場で販売していたからです。当時は牛肉大和煮缶詰が日本の畜産業界を大きく発展させたことなどつゆ知らず在庫数のチェックや発注などをしていました。もう27年前のことです。
その缶詰を、最初に大量に作り始めた場所は広島市立資料郷土資料館でした。今回国際観光レストラン協会の研修会に合わせて訪問しました。
郷土資料館が何故缶詰を作っていたのかを説明するには、やや長くなりますが、広島の近代史を説明しないといけません。
広島には明治維新後、軍の拠点・鎮台が置かれましたが、日清・日露戦争を契機にさらに軍用施設が集中し、一気に「軍都」と言った在り様に成って行きました。当時広島まで延びて来ていた山陽鉄道で兵員や物資を運んで来て、大陸の戦場へ向けて積み出したのが広島宇品港だったのです。
港は、それまで牡蠣や海苔を育てていた遠浅の海を埋めたてて建設されましたが、その新開地に建てられたのが、陸軍宇品糧秣支廠(りょうまつししょう)、分かりにくい名前ですが軍需食品工場のことです。
展示によりますと大変大規模な工場で、牛を生体で運び込み屠殺するところから、醤油で煮て缶詰にするまで一貫して行っていたようです。
ここで作られた缶詰が戦地の兵の飢えを癒やし、そして一方この需要に応えるため、日本の畜産業界が大きく発展したのです。
レストラン協会の会合でこの話しを地元の人にしましたら、
そう言えば、子供の頃はよく缶詰を喰わされたなあ!
と言っておいででした。缶詰製造の技術が民間にも移転して、広島は缶詰生産が盛んな土地になったのです。
さて歴史の話しに戻ります。このように広島は軍都でしたが軍都であるが故に原爆の攻撃を受けました。
糧秣支廠の建物も大損害を蒙りましたが、倒壊を免れ、やがて原爆を生き抜いた建物として再利用されることになりました。
それが、現在の市立郷土資料館です。
赤レンガの素敵な外観だけを眺めると、この建物と広島が歩んで来た、壮絶な歴史に想像が及びませんが、それが現実です。
皆様も是非機会があればお訪ねください。
牛にも缶詰にもご興味が無い方も、広島の牡蠣養殖の歴史資料は面白いと思います。
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毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。
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