最初のホテル

11月20日は「ホテルの日」だそうです。

そんな日があったのか、何故今日なのか、と思ったら、明治23年(1890年)に帝国ホテルが開業した日だからだとか。

他のホテルの人は祝ってるんでしょうか・・・

最初の西洋式ホテルは帝国ホテルではありません。

「築地ホテル館」が明治元年(1868年)に開業していて、そちらが日本人が設立した、最初の西洋式ホテルです。

江戸幕府が築地に外国人居留地を設置するのに伴い、諸外国に対して建設を約束しましたが、開業は幕府が倒れてから、明治維新後のことでした。

設計はアメリカ人ブリッジェンス。

施工は清水建設の創業者・清水喜助が請け負いましたが、喜助は工期を急がせ、わずか1年で完成させたと言いますから驚きます。

この建物は東京に出現した、最初の洋風建築の一つで、実に堂々たるものです。文明開化のシンボルとして、市中の大きな話題を集めたようです。

外国人の評判も悪くなかったようなのですが、明治5年の大火で焼失し、再建されることはありませんでした。残念ですね。

そのホテルを描いた錦絵を「ちんや」が収蔵していて、ネットでも、こちらからご覧になれますので、後でゆっくり観て下さい。

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日本初

毎年11月10日は「エレベーターの日」です。日本エレベーター協会が決めています。

この日は、実は浅草に大いに関係ある日なのですが、経緯を観て行くと、トホホな点もあります。

さて、何故この日が「エレベーターの日」なのか、ですが、

1890年(明治23年)11月10日に、日本初の電動エレベーターが浅草「凌雲閣」で公開された日だからです。

浅草「凌雲閣」は当時帝都東京随一の展望塔で、当初11月10日に開業予定でしたが、開業式の来賓の都合で翌11日に繰り延べられました。

「エレベーターの日」は、何故か、最初の11月10日の方を採用しています。

そして、もう1点トホホなことが、

エレベーターは開業当日より故障が頻発。危険だということで、翌1891年5月には警察から使用中止が出てしまいました。訴訟沙汰にもなったとか。

そういう次第で、目出たさも中くらいなので、この「エレベーターの日」です。

もっとも、面白い副産物もありました。

エレベーターが動かないので、12階まで階段で昇る人を楽しませようと、「東京百美人」

という、写真の展示が行われました。

東京の美人芸者100名の写真を階段に展示して、その中から人気上位5名が表彰されるというものでした。そんなイベントは、勿論日本初でした。

今は知っている人も少ない「凌雲閣」ですが、最近「鬼滅」で再び注目されました。エレベーターと百美人も話題になりましたら、さらに面白いと思います。

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論語とすき焼き

大河ドラマで、ようやくすき焼きのシーンがありました。

明治時代の話しだから、すき焼きのシーンがあるはずだと、ずっと視てきましたが、一瞬でした。

すき焼きが一瞬だったのは、その場面が大事な場面だったからです。

渋沢栄一たちがすき焼きを食べたのは、蚕卵紙の買い上げ・焼却の成功を祝う為でした。

横浜の外国商人が結託して、日本の蚕卵紙を買い控え、値崩れを起こさせようとしていたところ、栄一たちが政府の公的資金で買い上げ・焼却して、対抗したのです。

それが成功したので、栄一や渋沢喜作らはすき焼きで気勢を上げていたのですが、盛り上がった勢いで、栄一は、「論語」の大切さを語り出します。

後に渋沢と言えば「論語と算盤」となりますが、その始めがすき焼きのシーンでした。

同じ場面では、もう一つ大事なセリフも。

その場に来ていた、三井の三野村利左衛門が、皆が金を崇拝する明治の世が心配だと発言をするのです。

金の面では大成功者だった三野村が、そう渋沢に言うことで、今後の渋沢の行動に影響を与えます。

と、いうことで、肉が美味いとか、そういうセリフはなかったのですが、重要なシーンだったので、一応私は満足致しました。

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開校記念日

稲門の皆様、本日は創立記念日おめでとうございます。

稲門以外の皆様にお知らせしますが、本日は、1882年に早稲田大学の前身である「東京専門学校」が設立された日です。創立者は大隈重信(1838~1922年)。早稲田にあった、大隈侯の私邸の隣に開校しました。

今年は大河ドラマに大隈侯が長時間登場していて、しかも政党を創る前の時代が採り上げられているので、一般人が久しぶりに侯に注目した年になるかもしれませんね。

これまで大隈侯と言えば、まず「早稲田」。それから「立憲改進党」が知られている位でしたよね。

しかし、大隈侯は実は、立憲改進党を創る前は明治政府の中枢にいて、数々の革新的な政策を推進していました。その頃に渋沢栄一が部下だった為、今年の大河に長時間出ているわけです。

そろそろ渋沢は明治政府を離れてしまうので、大隈侯の出番も減るかと思います。稲門の皆様は、それまでしばしお楽しみくださいませ。

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築地梁山泊

今だに酒に関して「8時まで」「4人まで」と言われている現代東京ですが、

かつては国家の大事を酒席で決めていた時代がありました。

大河ドラマ「青天を衝け」の第29話には、こんな(↓)シーンがありました・・・

大隈重信と渋沢栄一が酒を飲み、殖産興業について激論し、やがて大隈は、

「よし!官の中で養蚕のことば一番知っとるとは渋沢や!養蚕のことは君に任す!」

と言って、渋沢を明治政府の養蚕担当者に決めてしまいます。

渋沢は元々養蚕農家の出身だったので、従弟の尾高惇忠を説得して政府に入れて、官営富岡製糸場を開設します。

このように幕末から明治の「志士」「国士」たちは酒が好きでした。

大隈と渋沢が飲んでいた大隈の、築地の私邸は「築地梁山泊」と言われ、夜ごと宴会が繰り広げられていたと言います。その場所は、今は料亭「新喜楽」になっています。

現代日本も早く酒を解禁しないと、国家の大事が決まらないかと・・・

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ひょうたん

アニメ『鬼滅の刃』の、浅草のシーンを観た方は、現代とかなり違うので、

これって、浅草のどこ?

と思った方が多いと思います。

観ていると、浅草の繁華街に大きな池があって、その池に面して映画館や劇場が立っていますが、その池が今はないので、場所が分からない方が多いと思います。

あの池は、形がひょうたんのようだったので、「ひょうたん池」と言いまして、場所は現在の浅草2丁目。JRAの場外馬券所がある辺りです。

今はビルが立っているということは、そこが埋め立てられたからです。

埋め立てられたのは1951年のことですが、それ以前に、太平洋戦争の戦災瓦礫が放り込まれていて、埋まったも同然の状態だったと聞きます。

土地の持ち主は浅草寺でしたが、戦争で本堂が焼けてしまったので、お寺はこの土地を売って、再建資金を捻出しました。

土地を手に入れて最初に「ひょうたん池」跡地を開発したのは、東急グループと阪急グループでしたが、やがて持ち主が変わり、1970年代からは馬券所があります。

残念ながら大正時代の風情は失われたままとなっています。

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鬼の棲み家

大ヒットアニメ『鬼滅の刃』がテレビで放送されたことにより、「鬼滅」の「聖地」である浅草が、また話題になることもあるようです。大正時代風の着物をレンタルして浅草を散歩するファンもいます。

が、そもそも「鬼滅」では何故浅草が鬼の棲み家なんでしょう?

当時随一の繁華街で、繁華街特有のダーティーさが浅草にはあったから、つまり今の新宿歌舞伎町のような土地柄だったということで選ばれたのかもしれません。

で、あれば、ですが、関東大震災(1923年)後の浅草にした方がよりリアルだったかもと私は思います。

当時震災で全てを失った人が、仕事を求めて浅草に流入していたからです。川端康成の小説『浅草紅団』を読むと、その様子が分かります。

なりふり構わず生き残ろうと、もがいていた人々の間なら、鬼も棲みつき易かったかもと思います。

しかし「鬼滅」の浅草には「凌雲閣」が描かれていますね。

「凌雲閣」は当時最高の展望塔でしたが大震災で倒壊しました。よって「鬼滅」の時代とは、大正元年(1912年)から23年までの間ということになりますね。

あ、そういう細かいことを考えずに視る方が良いですか、ね。

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近江牛の歴史

近江八幡のすき焼き店「毛利志満」(もりしま)の若旦那・森嶋利成さんが「ネノネ」というユニークな広報誌を作っておられて、毎号送って下さいます。

「文化広報誌」と銘打っていて、「ルーツ=根」から辿られる歴史の歩みを縦糸に、いま現在の「つながり=根」を横糸にして糸を紡ぐようにして編む、という大変結構なものです。

今回が3号目なのですが、ようやく「毛利志満ができるまで」という、店とご先祖の歴史を回顧する一文が載せられていて、それがそのまま近江牛の歴史になっているので、ご紹介してみようと思います。

さて、現代人は和牛肉というものは「近江」「松阪」「米沢」といった産地で、交配され生まれて育てられ、解体され肉になって、消費地へ冷蔵で送られてくるものと思っていると思います。

が、それは昭和30年代以降の話しなのです。

明治初期、森嶋さんのご先祖が肉を扱い始めた時、食べるために飼われている牛はいませんでした。そして森嶋さん自身は牛を飼ってはいませんでした。

牛を飼っていたのは稲作農家さんでした。牛は田圃で使役するために飼われていましたので、森嶋さんはその牛を買い取って、東京や横浜へ連れて行って売却したのです。

つまり最初の仕事は、近江から東京へ牛を連れて行く、ということだったのです。しかも鉄道も自動車もないので、陸路「歩き」で連れて行きました。現代の流通と全然違うことが分かりますね。

この流れがなくなったのは昭和30年代のことでした。トラクターが開発されて田圃で使われるようになったので、役牛は要らなくなりました。

この変化は、森嶋さんにとっては、上手く回っていた従来のやり方が出来なくなったわけで、大変な困った変化でした。

「毛利志満ができるまで」の中では、この転換期の様子は「艱難辛苦」と書かれています。「艱難辛苦」と言うくらい牛の流通の仕方が劇的に変わったということなのです。

この時森嶋さんは、自社牧場を建設します。そしてさらに、そこで育てた肉を消費する店としてすき焼き店「毛利志満」を、地元に開業したのでした。それが「毛利志満ができるまで」です。

近江牛は、明治時代から現代まで一貫して有名ですが、流通形態が大きく変わったこと、それに連動して事業者の形態も大きく変わったことは、ご存じの方が少ないので、ここでご紹介してみました。

面白いのは、そんな歴史を通じて、好まれる牛の血統が変わっていないことです。

明治初期に東京で好まれたのは、但馬から近江に導入されていた血統で、それは田圃で使役するのに向いていた血統だったのですが、それが食べても旨いということで、現代まで好まれ続けています。

ここが和牛の歴史の面白い点です。

追伸、

「ちんや」のご予約の方は、おかげ様にて殆どの時間帯がうまり、ただ今は当方の空いている時間に合わせていただいております。誠に恐縮ですが、よろしくお願いいたします。

追伸②

酷暑のシーズンとなり、食中毒が心配なので、「うし重」テイクアウトは終了いたしました。ご容赦下さいませ。(店内イートインは、地下一階「ちんや亭」でご用意できます)

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豚一殿

大河ドラマ「青天を衝け」で、これまで別々に描かれていた渋沢栄一と一橋慶喜とに、ようやくつながりが出来ることになるようです。ここまで結構時間かかりましたね。

渋沢が世に出たのは、なんと言っても慶喜に仕えたからですが、そういうことに詳しい方は他に大勢いるので、ここで書くのは止めておきます。

私が気になっているのは、慶喜が肉を食べるシーンがあるか?

ですね。

慶喜が肉を食べていたことは事実で、それもコソコソという感じではなく、当時から「豚一殿」というアダ名がつく位、知られたことであったようです。

慶喜の父・水戸斉昭も肉食家で、井伊直弼に牛肉を贈って欲しいと手紙を書いているくらいですから、慶喜にとっては何かひどく新しいことをやったという意識はなかったろうと想像されます。

そもそも徳川家は、禁欲的な家ではないです。

家康の頃から盛大に狩をしていて、鹿などの獲物を皇室に献上したり、町民に下げ与えることもありました。町民はありがたく食べていました。

慶喜は、将軍としても在職期間はわずか1年ほどでしたが、その後1913年まで生きて、歴代で最も長生きした将軍になりました。

きっと豚の効能だろうと私は思います。

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円太郎バス

都営地下鉄浅草駅の通路に、面白い広告が出ています。

「円太郎バス」が重要文化財に指定されたことを紹介する内容です。

「円太郎」は関東大震災(1923年)の後に登場しました。震災によって市電(路面電車)が壊滅的な被害を受けたので、その代わりとしてフォード車の自動車を800両も購入して乗り合いバスにしたのです。これが公営バスの先駆けとなりました。

この広告を見て私は、そうか、バスが登場したのは、市電の後だったなと再認識しました。

大正時代の「ちんや」を撮影した写真がありますが、写っているのは市電と自転車です。バスも、普通の自動車も写っていません。

震災がキッカケになって、東京では自動車の導入が進んだのだなあと分かります。

「円太郎」は「乗り合いバス」と言っても、可愛いサイズでした。

全長は5メートルもなく、11人乗りとされていましたが、全員乗るとかなり窮屈だったそうです。

それがやがて大型化して、現代の都営バスになります。

災害が進歩のキッカケになることもあるのですね。面白い歴史です。

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