近江八幡のすき焼き店「毛利志満」(もりしま)の若旦那・森嶋利成さんが「ネノネ」というユニークな広報誌を作っておられて、毎号送って下さいます。
「文化広報誌」と銘打っていて、「ルーツ=根」から辿られる歴史の歩みを縦糸に、いま現在の「つながり=根」を横糸にして糸を紡ぐようにして編む、という大変結構なものです。
今回が3号目なのですが、ようやく「毛利志満ができるまで」という、店とご先祖の歴史を回顧する一文が載せられていて、それがそのまま近江牛の歴史になっているので、ご紹介してみようと思います。
さて、現代人は和牛肉というものは「近江」「松阪」「米沢」といった産地で、交配され生まれて育てられ、解体され肉になって、消費地へ冷蔵で送られてくるものと思っていると思います。
が、それは昭和30年代以降の話しなのです。
明治初期、森嶋さんのご先祖が肉を扱い始めた時、食べるために飼われている牛はいませんでした。そして森嶋さん自身は牛を飼ってはいませんでした。
牛を飼っていたのは稲作農家さんでした。牛は田圃で使役するために飼われていましたので、森嶋さんはその牛を買い取って、東京や横浜へ連れて行って売却したのです。
つまり最初の仕事は、近江から東京へ牛を連れて行く、ということだったのです。しかも鉄道も自動車もないので、陸路「歩き」で連れて行きました。現代の流通と全然違うことが分かりますね。
この流れがなくなったのは昭和30年代のことでした。トラクターが開発されて田圃で使われるようになったので、役牛は要らなくなりました。
この変化は、森嶋さんにとっては、上手く回っていた従来のやり方が出来なくなったわけで、大変な困った変化でした。
「毛利志満ができるまで」の中では、この転換期の様子は「艱難辛苦」と書かれています。「艱難辛苦」と言うくらい牛の流通の仕方が劇的に変わったということなのです。
この時森嶋さんは、自社牧場を建設します。そしてさらに、そこで育てた肉を消費する店としてすき焼き店「毛利志満」を、地元に開業したのでした。それが「毛利志満ができるまで」です。
近江牛は、明治時代から現代まで一貫して有名ですが、流通形態が大きく変わったこと、それに連動して事業者の形態も大きく変わったことは、ご存じの方が少ないので、ここでご紹介してみました。
面白いのは、そんな歴史を通じて、好まれる牛の血統が変わっていないことです。
明治初期に東京で好まれたのは、但馬から近江に導入されていた血統で、それは田圃で使役するのに向いていた血統だったのですが、それが食べても旨いということで、現代まで好まれ続けています。
ここが和牛の歴史の面白い点です。
追伸、
「ちんや」のご予約の方は、おかげ様にて殆どの時間帯がうまり、ただ今は当方の空いている時間に合わせていただいております。誠に恐縮ですが、よろしくお願いいたします。
追伸②
酷暑のシーズンとなり、食中毒が心配なので、「うし重」テイクアウトは終了いたしました。ご容赦下さいませ。(店内イートインは、地下一階「ちんや亭」でご用意できます)
本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。 弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし、本日は4.183本目の投稿でした。