90回

今年も仲見世に早慶レガッタの旗が掲げられました。

早慶両校の旗が交互にかけられますが、ワセダの旗はえんじ色でお地味なので目立ちません。仲見世を義塾が占領したかと、毎年一瞬だけ思います。

昨年は残念ながらコロナ禍で中止でしたが、今年(第90回)は、

4月18日(日) 隅田川にて「無観客開催」されます。

例年両校の応援合戦がある桜橋付近は「密」になりますが、そこ以外は、公園ですから観に行っても危険ではないと思いますが、それでもオンラインで観たい方は、こちらです。

本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。 弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし、本日は4.057本目の投稿でした。

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一歩前進

浅草神社(「三社様」)の神社総代会が開かれ、今年の三社祭は、コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、神輿を担がず、台車に載せて街を巡ることを決めました。

ご存じの通り、昨年は5月から10月に延期した上、神輿を担がずトラック巡行でした。

しかも見物客の密集を避けるため、人が歩くよりもずっと速く巡行しました。

あ・・・

と言う間にトラックが行ってしまったというのが、昨年でしたが、今年は人力で押すので、だいぶゆっくり、そして街の人の関わりが増えることになります。

三社祭の開催日は、今のところ、5月14~16日ですが、感染状況によっては柔軟に変えることもあるそうです。ご承知おきくださいませ。

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犬と浅草

浅草寺教化部が月一回発行する月刊「浅草寺」3月号に

「犬と浅草」

という大変興味深い一文が載っており、「ちんや」のことも書いてありました。それによりますと、

「浅草は狆(ちん)のブリーディングの拠点でした」

うん、そうなんです、明快で重要な一行です。そして、この文にすぐ続けて、

「すき焼きで有名な浅草の「ちんや」の店名は、明治13年に料理屋に転じる前、江戸時代に諸大名や豪商に狆などの愛玩動物を納め、獣医の役割も兼ねていたことから「狆屋」と呼ばれていたことにちなむそうです。ペットショップと獣医とブリーダーを兼ねたような存在ですが・・・」と書かれていました。さらに、

「当時の狆のブリーディングは非常に高度なもので、その中心となっていたのが、まさに浅草だったのです」(出典『江戸時代における狆飼育について』

「十代将軍家治の世嗣であった家基が、鶉をはじめとした鳥や狆を見に、浅草へやって来たこともあったそうです」

「浅草は江戸時代のペットブームの先端を行く地域でした」

ここには書かれていませんでしたが、狆の業界では「浅草筋」すなわち浅草のブリーダーが持っている血統が珍重されていたそうで、「浅草は狆のブリーディングの拠点」というのは間違いないことだと私も考えています。

著者は徳川林政史研究所非常勤研究員の浦井祥子先生。寛永寺の浦井先生のお嬢様ですね。

浅草の狆のこと以外にも綱吉の「生類憐みの令」の件なども載っています。勉強になりました。

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春休み

春休みだからか、若い人が浅草に来て下さっています。

卒業旅行が禁止されているので、その代わりなのかもしれません。

年配者が引き続きホームステイしているので、若い人が多く見えるのかもしれません。とにかく目立ちます。

そして、カレ・カノジョ達が楽しそうにやっているのは、

歩き食い・・・

私達の世代は歩き食いは不謹慎と教わりましたし、実際問題として、ゴミが路上に捨てられるとか、汚れた手を拭かずに他のお店の商品を触るとか、トラブルもあります。

が、カレ・カノジョ達の表情は、とにかく楽しそうです。

浅草に行ったら歩き食いをしてみたいと楽しみにして来る人もいるとか。浅草には「縁日感」があって、その一部が歩き食いなのかもしれません。

その様子を見るにつけ、こちらの考え方を修整する必要があるのかなあとも思います。

浅草には過去歴代新奇なものが次々と登場してきました。

そして、その中には最初不謹慎と言われたものもありました。

22日の弊ブログに書いた「浅草オペラ」もそうでした。

「鬼滅の刃」の時代=大正初期の浅草で一番人気があったのはオペラでしたが、その若いファン(当時「ペラゴロ」と呼ばれました)は熱狂的でした。

「ペラゴロ」は、今日のアイドルの「追っかけ」に似ています。その非常識ぶりが、当時の日本で始まったばかりのイエロー・ジャーナリズムの恰好のネタになりました。

オペラ女優ごとに「推し」の集団が出来て、幟をたてて行進、他の推し集団と行き会えば一触即発。

一人のゴロが他のゴロを出し抜いて女優を口説き、アフターの食事に連れ出せば大問題・・・と現代と同じ構図ですね。

西洋のオペラを正しく紹介するという観点ではまったく不謹慎ですが、多くの人が喜んでいた事実は残ります。

まずはゴミの汚れた手の問題を解決して、それでも禁止すべきか考えた方が良いかもしれません。

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過去

「地元の人が知っている浅草の本当の魅力を学び発信していく」サイト

omve-asakusa.jp

に旧知の琵琶奏者・友吉鶴心さんが登場しました。

というサイトを知りました。

omve-asakusa.jp

は浅草の地元出身の、才能ある若い方がやっています。

その中で友吉さんは、こう言っています、

「”夢”ってみんな未来にあると、思いますよね。俺は、過去にあると信じます。過去が未来の”夢”に繋がっていく。」

過去を知ること無しに未来はないというのは同感ですね。

例えば、少々話しが飛ぶですが、オリンピック。聖火リレー。

そもそも、何のために始まったのか。そこが御留守と思うのは私だけでしょうか。

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盛り場

緊急事態が明けました。

観光地・浅草をどうするのかという議論が行われないといけない状況だと思います。

が、そもそも浅草は「観光地」なのか、と申しますと、明治・大正・昭和の浅草は、観光地というより「盛り場」という感覚であり、この時代の浅草がおそらく歴史上一番面白かった時代だと私は思います。

私は、すき焼き屋という明治時代に起源のある店に関わっていますので、明治の浅草の面白さを皆様に伝えるのも自分の一つの役割と思わないといけないのですが、もろもろの用事にかまけて出来ていないのは申し訳ないことだと思っています。

一応、このブログでそうしたことを書いてみたり、明治時代の「開化絵」を集めて店に飾り、ネット(こちら)でも公開しておりますが、まだまだ足りないと思っています。

以下は言い訳ですが、明治・大正・昭和の浅草の面白さを伝えるのは、少し難しいです。

その理由は、

・当時の浅草の実態は、現代日本人が浅草について抱いている「江戸情緒の町」というイメージから、かなり離れている。

・当時「浅草らしい」ことばかりが行われていたわけではない。むしろ新奇なことが行われることも多かった。

今日の価値観に照らすと「好ましくない」ことも、盛んに行われていた。

例えば、大正初期の浅草で一番人気があったのはオペラでした。「浅草オペラ」と呼ばれています。

オペラとはもちろん西洋のクラシック音楽のオペラ。まったく、江戸の町らしくも浅草らしくありませんが、観衆は熱狂的でした。劇場にファン(当時「ペラゴロ」と呼ばれました)が入り過ぎて、一人の「ペラゴロ」が二階から一階に落下、「人が降って来た」と話題になりました。

「ペラゴロ」は、今日のアイドルの「追っかけ」に似ています。その非常識ぶりが、当時の日本で始まったばかりのイエロー・ジャーナリズムの恰好のネタになりました。

「浅草オペラ」の根本は西洋のオペラですから江戸の町らしくも浅草らしくもありませんが、一部浅草らしいところもありました。それは歌詞が日本語だったことです。これで格段に親しみ易くなりました。

そして、ここからがさらに浅草らしい点ですが、次第に翻訳以上の改変もされて行ったのです。

「ベアトリねえちゃん」という一曲があります。スッぺ1819年~1895年)作曲のオペレッタ「ボッカチオ」の中の一曲で、「浅草オペラ」で盛んにわれた歌です。

これはベアトリーツェという名前の登場人物の娘について歌った歌ですが、長い名前で親しみにくいですね。「ねえちゃん」を付けた方が親しめますね。

オッフェンバック(1819年~1880年)のオペレッタ『ジェロルスタン大公妃殿下』ではタイトル自体が変わって『ブン大将』に成ってしまいました。「大公」は親しみづらく「大将」なら親しめますからね。

外国語の歌詞を日本語に訳すと、音楽に載せにくくなることが良くありますが、そういう場合は、歌詞を変えてしまいました。

逆に音楽を、日本語の歌詞に合わせて変えてしまうことさえありました。

西洋のオペラを採り入れながら、「原典に忠実に」という西洋の精神は採り入れなかったのです。ここは浅草らしいと言えるかもしれません。

が、この「浅草らしさ」は伝えにくいです。「浅草らしくないのに浅草らしい」ということですから、少ない文字数では伝えにくいです。

つぎに、今日の価値観に照らすと「好ましくない」ことですが、例えばストリップがあります。

戦後1950年代の浅草で一番人気があったのはお笑いですが、そのお笑いはストリップ小屋でストリップ・ショーの合間に上演されていました。

ストリップと聞いて今日のアダルト・ビデオと同じと思ってはいけません。パリの「ムーランルージュ」を目指した本格的なショーで、パリに留学経験のある永井荷風も好んで観ました。座付き作家は無名時代の井上ひさしでした。

踊り子がバストを露出していましたから、「猥褻」に入ってしまうかもしれませんが、現代のAVと比べれば、当時のショーは美しいとすら言えます。

このショーの副産物=踊り子を休ませるために合間に上演されていたお笑いが、後にテレビ業界の中心になって行きます。

ストリップを観に来た客を笑わせるのは大変難しく、それが出来る、才能のある芸人だけが生き残って人気を集めました。代表するのは「コント55号」や「ツービート」です。井上ひさしは「ストリップ界の東京大学」と言って、ここに集まった芸人の才能を称えました。

1960年代にテレビ産業が勃興した時、ここにいた芸人たちが浅草からテレビに移籍して、業界を支えるようになったのです。

もう少し前の浅草の「好ましくないもの」と言えば、見世物小屋がありました。当時は動物の見世物や、障害のある人間さえ見世物にしており、好ましくないものだらけだったとすら言えます。

そして、この「好ましくない」感覚は私個人の個人史の中で一つの問題になりました。

浅草小学校で私は下手に成績が良かったものですから、優等生として扱われました。で、ストリップ、観に行きてーなー!

などと発言しづらくなってしまい、後々まで浅草の猥雑文化を愛せなくなってしまいました。これまで明治・大正・昭和の浅草を伝える役割を果たさなかったのは、当時、正直申して好きでなかったからです。

浅草の猥雑文化は、川端康成、永井荷風、高見順といったれっきとした文化人に愛されていて、それがまた浅草の面白さにつながっていましたが、そこに気づけたのは、私の個人史の中では後々のことでした。荷風についても以前は少しおかしい人だと思っていました。

猥雑文化を愛せなかったのには世代的な原因もあります。

私の父(1935年生まれ)のような戦中・戦後すぐ世代の人達の中には、戦争で日本が大敗したのを見て、これからは西洋に学ぼうと考えた人達がいました。

父は西洋のクラシック音楽にとても詳しくなり、私も小さいころから良く聞いていましたから、「浅草オペラ」が歌詞や曲を改変していたことについては言語道断なことと思っていました。

このように猥雑浅草を、正直申して好きでない時期がありました。

そうこうする内、戦前・戦後の知る浅草の先輩方が減ってきました。

江戸時代の浅草を学ぼうという人は少なくないようですが、明治・大正・昭和となると寂しいようです。

これから浅草にはどういう時代が来るのでしょうか。

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ホッキョクグマホテル

動物をどう扱うか、

について、世界には違う感覚を持つ人々がいて、現代の一つの論争のテーマだと思います。

動物を大切に扱う人は、先進国民、上級国民と言われ

そうしないと後進国民、下級国民と言われます。

が、先進側が後進側を差別して良いということでもありません。

例えば、最近話題なのは中国ハルビン市の「ホッキョクグマホテル」。

ガラス張りのクマの飼育スペースを取り囲むようにホテルの客室やレストランが配置されていて、どの客室からも24時間ホッキョクグマを見ることができるとか。

当然ながら動物愛護団体からの批判を浴びています。

「ゲストはホテルに飽きたら帰宅すればいい。でもホッキョクグマに行き場はない。家族から引き離され、故郷に戻れず、人間のエンターテインメントのために生きなければならないのならあまりにも悲惨だ。」

「常にライトに照らされ、たくさんの窓に囲まれた場所で過ごすなんてストレスに違いない。まずは人間を展示スペースに入れて試してみるべきよ。」

このホテルは勿論ひどいです。が、だからと言って、

これだから中国人は・・・

と民族の問題にもって行くのは、私は違うと思います。何故なら明治時代の浅草でも見世物小屋が大繁盛だったからです。動物だけでは足りず、障害のある人間を見世物にしたこともありました。

当時は浅草の見世物小屋だけでなく、もっと公式な博覧会で人を見世物にしたこともありました。

東京府が1914年に開催した「東京大正博覧会」には「南洋館」という施設が建てられ、「ベンガリ種族」、「マレー種族」、「ジァヴァ人」といった人達が、日常生活の様子を見せたり、舞踊を演じたりしていました。当時これを「人種の展示」と言っていたそうです。場所は上野公園です。

「人種の展示」って私は「リアリティ番組」「リアリティショー」に近いと思います。だからそれを面白がって放送したり視たりしている現代日本人は、中国人や大正の日本人を馬鹿にできないよなあ、というのが私の感覚ですね。

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募集コメント

「台東区芸術文化支援制度」により、今年も区内を舞台としたアート企画に補助金が出されます。募集を開始するにあたって、私もコメントを求められました。

この制度は区が2008年(平成20年)にスタートさせたもので、私は区の「アートアドバイザー」として制度発足の前からお手伝いさせていただいております。

自治体の補助金制度というと、在住者の地縁で助成先が選ばれてしまいがちですが、この制度では、むしろ、台東区に新鮮な企画を持ち込んで欲しい!という発想で、他の「アートアドバイザー」の皆さんと共に、斬新な企画を選んできたつもりす。

また、こうした制度が10年以上、ほぼ同じポリシーで運営されてきたこと自体もまれなことと思います。

コロナ禍で人が接触する企画は採用が採択難しい状況ですが、ここはひとつ、それを逆手に取ったようなものを期待したいと思います。

応募していただく企画には「軽い驚き」を期待しています。台東区在住者がその企画を知った時、へえ、自分の良く知っている土地はそういうふうにも見えるのか!と新鮮に感じるような企画が出たら嬉しいです。特に今年はコロナ禍で土地の見え方も変わりました。わざわいを、新しい発想を導く機会にしていただければと思います。期待しています。

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3.10と3.11

2011年以降は3.11が有名になり、3.10はやや影が薄くなりましたが、3月10日は東京や浅草にとっては、忘れてはいけない日です。

「東京大空襲」により10万人以上の犠牲者が出たのが1945年の、この日でした。

戦前の浅草区は人口が密集していた為、東京の中でも特に多くの犠牲が出ました。戦後に浅草区と下谷区が合併してできた「台東区」の現在の人口が21万人ほどであるのに対して、合併する前の浅草区だけで27万人いたそうで、その区域の大半が焼けましたから、実に悲惨なことでした。

私は2016年に出した対談本『浅草はなぜ日本一の繁華街なのか』の中で、浅草の9人の旦那衆と対談しましたが、その内のお三方が大空襲の経験者でした。戦前からの浅草の住民で、身内に死者が一人もいないという家はかなり少ないだろうと思います。

戦後の浅草は、そこからスタートし、1970年代の衰退も乗り越えて今日があります。

3.10と3.11、考えることの多い二日間です。

本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。 弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし、本日は4.029本目の投稿でした。

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二重マスク

始めてみました、「二重マスク」を。

ちゃんとした不織布マスクをしっかり装着すれば相当程度の感染抑止効果があり、二重にしたところで、そこから劇的に改善するわけではないのは存じております。

それでもやってみるのは、勿論気分の問題です。

今回を「最後の緊急事態」にするために何か出来ることがあれば何でもやってみよう!という話しです。

マスクを手に入れたのは、浅草2丁目の「ふじ屋」さん。オリジナル柄を染めた、手ぬぐいの専門店です。オリジナルの浅草らしい柄が色々あります。種類が多くて迷うくらいです。

コロナが始まってからはマスクも作っておられましたが、生地は手ぬぐいと同じ生地ですから、単独だと充分な感染抑止効果はないです。そういうものと理解した上でつけて下さいという売り方をなさっています。

しかし、不織布と二重にするなら、感染抑止も柄も両方ゲットできますね。

皆さんも、始めてみませんか、「二重マスク」を。

どうせ、政府のやることだって、エビデンスは今市なんだから。

本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。 弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし、本日は4.028本目の投稿でした。

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