老舗の生き抜き方⑤

福島県酒造組合さんが運営する学校「県清酒アカデミー」で1時間ほどの講演をすることになりました。

 震災以来応援している「福島の酒」ですし、聞き手は醸造を志している若い方ばかりだそうですので、一生懸命お話ししてきたいと思っています。

 その原稿が準備できましたので、弊ブログでも公開して行きたいと思います。長いので8回に分けてUPしています。

 御題は、老舗の生き抜き方というものをお話しせよ、ということしたので、そういう方面の話しをさせていただきます。

 本来自分で「老舗」と自称するのは僭越な話しではあるのですが、他に適当な日本語がありませんので、使うことにいたしまして、つまりは浅草の、すき焼き屋ですとか、天麩羅屋ですとか、鰻屋ですとか、蕎麦屋ですとか、そういう仕事を永年して来た店が、時代の変化や危機をどのように乗り切ってきたか、をお話ししてみたいと思います。

 本日は、その第5回です。おつきあいいただけましたら、幸いです。

<以下講話本文>

(時代に対応するだけではなくて~未来の歴史を創る)

 御客様とのつながりを引き継ぐために、私の代になって、始めたことをいくつか紹介してみたいと思います。画面をご覧くださいね。

①番目は、すき焼き思い出ストーリー投稿サイトです。たくさんのご家族がすき焼きにまつわる思い出をお持ちだと思うのですが、それをいちいち文章に起こさないですよね。でも文章にしないと消えちゃいます。だからネットを通じて発表していただくことにしました。是非後で観て下さい。

②番目は、すき焼き川柳オン・ツイッターです。これは①の変形です。散文より川柳が得意な人が多いですのでね。それとツイッターを絡めました。

③番目は、記念日割引です。誕生日割引は、いろんなレストランでやっていますが、「ちんや」の場合は、御客様が自由に日を指定できることです。先ほど申しましたようにご法事も多いですので、目出度いばかりが記念日ではなく、不祝儀の日でも指定できます。店のスタッフの側が割引されて嬉しい割引、というのは珍しいと思います。

④番目は、すき焼き通検定試験です。これはクセ玉です。すき焼きの薀蓄を勉強して、合格して下さった方は、もう御客様というより、一種の仲間として優待して行こう、という考えです。

⑤番目はニコニコBOXで、これは社内向けです。仕事している最中に御客様から聞いた、すき焼きに関する感動話しを報告させ、そのたびに貯金して、親睦会の会費の足しにする、というものです。

 集めてみると、実に有り難い話しがたくさん聞けまして、ああ、いままで、こういう話しが記録されずに、右から左へ消えていたんだなあ、実に勿体無いことをしていたもんだ、と感じました。さらに、ここで集めた話は、ネットにも出して行きます。

 ニコニコBOXでは例えば、脳の重篤な病気をされた方が、ご闘病中、なんとか直して旨いものを食べたい、病院から出たら、ちんやのすき焼きを食べたい、と思って下さっていた、というような話しもありまして、こういう話しを聞くと、心底この仕事をますます頑張らねば、と思います。こういう話しこそが、まさに店の財産です。

 経理上は、金や建物が「財産」ですが、本当の財産とは、こういう話しと思っています。そう思う理由は、勿論、余計な説明抜きで、この仕事に取り組む意義を分からせてくれるからです。

 ここで今の例の、かなりの部分がネットに関係していることにご注目いただきたいと思います。恥ずかしながらブログもやっておりまして、ただ今860日連続更新を続けております。やはり時代の変化に対応することは大事です。

 浅草は戦後の復興に当たって、「テレビの時代」が到来したことに対応しなかったため、最近までかなり長期の衰退期を経験しました・・・

<この話しは、長いので8回に分けてUPします。本日は、その第5回でした。>

追伸①

 藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に載せていただきました。
 不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

 他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

 是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
 ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸②

 「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は270人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 参加者の方には、特典も! 

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて860日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

老舗の生き抜き方④

 福島県酒造組合さんが運営する学校「県清酒アカデミー」で1時間ほどの講演をすることになりました。

 震災以来応援している「福島の酒」ですし、聞き手は醸造を志している若い方ばかりだそうですので、一生懸命お話ししてきたいと思っています。

 その原稿が準備できましたので、弊ブログでも公開して行きたいと思います。長いので8回に分けてUPしています。

 御題は、老舗の生き抜き方というものをお話しせよ、ということしたので、そういう方面の話しをさせていただきます。

 本来自分で「老舗」と自称するのは僭越な話しではあるのですが、他に適当な日本語がありませんので、使うことにいたしまして、つまりは浅草の、すき焼き屋ですとか、天麩羅屋ですとか、鰻屋ですとか、蕎麦屋ですとか、そういう仕事を永年して来た店が、時代の変化や危機をどのように乗り切ってきたか、をお話ししてみたいと思います。

 本日は、その第4回です。おつきあいいただけましたら、幸いです。

<以下講話本文>

(被災の経験から)

 こ​の時代、浅草の家で、身内に一人も死人が出なかった家は​珍しかったのです。それでも所謂「老舗」企業は継続して来たわけで、それは人々​が、丸焼けの状態からの復興を果たして来たからです。

 こうした被災の経験から学ぶことが出来るのは、「本当の資産と​は、金でも建物でもない」ということです。それは、第一​には働く者の心と智恵であり、また第二には店の再開を望​んで下さる御客様とつながりです。だって、そもそも金は天下のまわりもの、ですし、建物だって爆撃されれば、跡形無くなってしまいますからね。

 特に重要なのは2番目の、御客様とのつながりだと思います。

 それなりの会社であれば、それなりの人材を揃えているでしょうから、被災しても金策さえつけば、表面上の再建はできましょう。

 問題は、その後です。「是非店を再開して下さい。必ず食べに行きます。」という御客様が、どれだけいるか、が問題です。御客様自身も被災していて苦しいわけですから、下手に金など使いたくないはずです。それでも、その特定の店に行きたい、というほどの強い気持ち・つながり=絆と言って良いのかもしれませんが、そのつながりが店と客の間に出来ているかどうか、被災した時・危機の時には、それが明らかになります。

 ニュアンスがかなり違うかもしれませんが、横文字で「ブランド・ロイヤリテイー」という言葉がありますね。その究極の形が、これだと思っています。2度の被災を乗り越えた浅草の御店には、それが備わっていたはずだと思っています。

 そのことは、私も分かっているつもりではありましたが、本当の意味で心底得心しましたのは、さきほど申したましように、今回の震災後に淡島堂の前を通った時でした。ですので、皆さんの前で偉そうなことを言える立場ではないのですが、今日のところは大正・昭和の浅草人の、私が代理なのだと思って聞いていただければ有り難いです。

 では、そうした絆は、いつどのように出来るのでしょう。それは当然、御客様の人生に、その店が強く関わりを持った時にしか出来ませんね。その方の人生の喜びや場合によっては悲しみに、その店が関わった時に、初めてつながりができます。

 例えば、死んだお爺ちゃんの法事で親戚が集まった後の食事はどうしますか。お爺ちゃんが生前好きだった店、お爺ちゃんが連れて行ってくれた店で食事しませんか。当然です。

 だから「ちんや」では、生臭の食べ物なのに、戦後のある時期まで、とても御法事が多かったそうです。しかも3月と9月に多かったそうです。なぜでしょう。大空襲が3/10で大震災が9/1だったからです。忙しく悲しいとは、珍しい状況です。

 そうしたつながりを、今私達は、さらに強くして、また再生産しないといけません。再生産と申しますのは、お爺ちゃまとのつながりを御子様もへ、御子様とのつながりをお孫さんへも、ということです。

 そのように2世代・3世代に渡ってつながりのある御客様が出来て初めて、その店は「老舗」と呼ばれて良いのだろう、と思っています。あくまで自称ではなく、人様から、ですが。

 御客様とのつながりを引き継ぐために、私の代になって、始めたことをいくつか紹介してみたいと思います。画面をご覧くださいね・・・

<この話しは、長いので8回に分けてUPします。本日は、その第4回でした。>

追伸①

 藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に載せていただきました。
 不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

 他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

 是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
 ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸②

 「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は270人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 参加者の方には、特典も! 

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて859日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

老舗の生き抜き方③

 福島県酒造組合さんが運営する学校「県清酒アカデミー」で1時間ほどの講演をすることになりました。

 震災以来応援している「福島の酒」ですし、聞き手は醸造を志している若い方ばかりだそうですので、一生懸命お話ししてきたいと思っています。

 その原稿が準備できましたので、弊ブログでも公開して行きたいと思います。長いので8回に分けてUPしています。

 御題は、老舗の生き抜き方というものをお話しせよ、ということしたので、そういう方面の話しをさせていただきます。

 本来自分で「老舗」と自称するのは僭越な話しではあるのですが、他に適当な日本語がありませんので、使うことにいたしまして、つまりは浅草の、すき焼き屋ですとか、天麩羅屋ですとか、鰻屋ですとか、蕎麦屋ですとか、そういう仕事を永年して来た店が、時代の変化や危機をどのように乗り切ってきたか、をお話ししてみたいと思います。

 本日は、その第3回です。おつきあいいただけましたら、幸いです。

<以下講話本文>

(関東大震災・東京大空襲と浅草)

 そこへ1923年、関東大震災が起こります。

 大火災が発生しまして、特に浅草を含む東京東部は壊滅・ほぼ丸焼けの有り様と成りました。帝都随一の展望台だった「十二階」もあえなく倒壊しました。そして、その震災後の復興キャッチフレーズが、あの有名な

「君よ、散財にためらうことなかれ。君の十銭で浅草が建つ。」です。

そんな看板が立てられたといいます。つまりは経済を止めてしまったら第二の被災になってしまうから、厳しい中でも少額でも消費して、豚カツとかシナ蕎麦とかにお金を使って再建しよう、ということです。

 十銭消費のおかげで、この時は意外な速さで、復興が進められ、昭和も二ケタに入りますと、高見順の小説「如何なる星の下に」に描かれたような興業街が復活します。しかし、もう時代は「国家総動員の時代」ですね。浅草はこの頃、時代にあわせられない人達~たとえば永井荷風や高見順に愛されるようになります。

 反体制と言うと言い過ぎかもしれませんが、そういうイメージの、小さい心の逃げ場として、もうしばらく繁栄を続けていきますが、もう戦争です。

 歴史とは皮肉なもので、総動員されたくない人々が集っていた浅草が、1945年の大空襲で完全に壊滅します。去年の津波の映像も酷かったですが、あれに匹敵する酷さで、全てが焼き尽くされたのが浅草でした。関東大震災でも壊滅しましたので、二度目です。

 ここでレジュメの下に載せた写真を説明をしますね。これは浅草寺の本堂です。現在の本堂では、勿論ないです。戦災から1958年(=昭和33年)まで使われていた仮本堂です。今は「淡島堂」と呼ばれていて浅草寺の境内にありますが、こんな小さな建物です。入口なんか、人間が3~4人しか通れないです。

 こんな小さな建物が13年間も本堂だったのです。二度目の被災ということで、ダメージが大きく、13年も再建できなかったのです。

 13年もかかりましたから、その間に亡くなられた方も少なくなかったと思います。

 今度の震災があって、私は、朝のニュース番組で三陸の御寺や御やしろが壊れているのを見て、その後たまたま「淡島堂」の横を通りかかりました。ああ、今回被災した御寺が再建されるのに何年かかるだろう、それを見ずに死んでしまう人もいるだろう。昭和本堂の完成を見ることのできなかった浅草の人達の悔しい気持ちと同じだなあ、と思いました。

 あの建物を見ていて、心底からそういう感情を持ったのは、私にとっては、これが初めてでした。以上がこの写真の説明です。

 さて、このように浅​草は1923年と1945年の二度丸焼けになっているわ​けで、実は20世紀前半の、最大の被災地とすら言えます。こ​の時代、浅草の家で、身内に一人も死人が出なかった家は​珍しかったのです。それでも所謂「老舗」企業は継続して来たわけで、それは人々​が、丸焼けの状態からの復興を果たして来たからです。

 こうした被災の経験から学ぶことが出来るのは、「本当の資産と​は、金でも建物でもない」ということです。それは、第一​には働く者の心と智恵であり、また第二には店の再開を望​んで下さる御客様とつながりです。だって、そもそも金は天下のまわりもの、ですし、建物だって爆撃されれば、跡形無くなってしまいますからね。

 特に重要なのは2番目の、御客様とのつながりだと思います・・・

<この話しは、長いので8回に分けてUPします。本日は、その第3回でした。>

追伸①

 藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に載せていただきました。
 不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

 他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

 是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
 ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸②

 「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は262人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 参加者の方には、特典も! 

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて858日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

老舗の生き抜き方②

 福島県酒造組合さんが運営する学校「県清酒アカデミー」で1時間ほどの講演をすることになりました。

 震災以来応援している「福島の酒」ですし、聞き手は醸造を志している若い方ばかりだそうですので、一生懸命お話ししてきたいと思っています。

 その原稿が準備できましたので、弊ブログでも公開して行きたいと思います。長いので8回に分けてUPしています。

 御題は、老舗の生き抜き方というものをお話しせよ、ということしたので、そういう方面の話しをさせていただきます。

 本来自分で「老舗」と自称するのは僭越な話しではあるのですが、他に適当な日本語がありませんので、使うことにいたしまして、つまりは浅草の、すき焼き屋ですとか、天麩羅屋ですとか、鰻屋ですとか、蕎麦屋ですとか、そういう仕事を永年して来た店が、時代の変化や危機をどのように乗り切ってきたか、をお話ししてみたいと思います。

 本日は、その第2回です。おつきあいいただけましたら、幸いです。

<以下講話本文>

(予備知識②=明治・大正時代の浅草)

 さて明治時代です。

 この時点で浅草は天下一の盛り場でしたが、明治時代になって、さらに繁栄を謳歌します。キッカケは「公園」の整備に関する、新政府の布告です。明治6年の、この布告によりまして浅草寺境内は「浅草公園」と命名されました。この時決めた「公園」が日本初の「公園」です。

 でも「公園」って聞いて?と思いますよね。浅草って公園ですかねえ。でも「公園」だったんです。

 この当時の日本人は「公園」という言葉を分かっていなかったんです、この頃Parkを訳して造られた新語だったからですね。で、当時はどう解釈されていたのかと申しますと、公けに遊興して良い場所とか、遊園地と考えていたようです。

 もう少し言えば、「公園」即ち盛り場っていう感じです。それで「公園」は、設立の趣旨とは違って、盛り場化する傾向にあったようです。Park本来の、西洋式の正常な発展をとげた公園は、まず上野公園位のものでした。

 「公園」がそうなって行った理由ですが、当時新政府は財政が厳しくてカネがありませんでした。そこで公園経営に必要な経費を稼ぐため、敷地の一部を賃貸しするんですね。それも射的とか、玉突とか、楊弓とか、見世物なんかの店に賃貸ししてしまったのです。

 浅草の場合は、賃貸ししたどころではなく、土地を掘って「ひょうたん池」という池を造り、池の周りを造成して街を用意し、そこを貸し出した、と言いますから、ほとんど不動産屋ですね、新政府は。

 この時に造成された一帯こそ、明治・大正・昭和戦前に日本一の歓楽街と成る浅草公園第六区縮めて「六区」です。

 今でも楽しいショーを見せてくれる「ロック座」がありますが、ロックンロールをやる座じゃないですからね。詳しいことは、女性もおいでなんで割愛しますけどね、六番目の区画だから六区なんです。ご興味のある方は、実地に御検分いただければと思います、はい。

 と、このような次第で、浅草は盛り続けまして、時代が下ると今度は演劇館、活動写真館、「浅草オペラ館」などの上演が連日行われるようになります。浅草は芸能の殿堂、と言われたのが、この時代ですが、その盛り場を政府が作ったっていうところが、歴史のチト思い白いところです。

 そこへ1923年、関東大震災が起こります。

 大火災が発生しまして、特に浅草を含む東京東部は壊滅・ほぼ丸焼けの有り様と成りました。帝都随一の展望台だった「十二階」もあえなく倒壊しました。そして、その震災後の復興キャッチフレーズが、あの有名な

「君よ、散財にためらうことなかれ。君の十銭で浅草が建つ。」です・・・

<この話しは、長いので8回に分けてUPします。本日は、その第2回でした。>

追伸①

 藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に載せていただきました。
 不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

 他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

 是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
 ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸②

 「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は262人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 参加者の方には、特典も! 

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて857日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

老舗の生き抜き方

 福島県酒造組合さんが運営する学校「県清酒アカデミー」で1時間ほどの講演をすることになりました。

 震災以来応援している「福島の酒」ですし、聞き手は醸造を志している若い方ばかりだそうですので、一生懸命お話ししてきたいと思っています。 

 その原稿が準備できましたので、弊ブログで先行公開して行きたいと思います。長いので8回に分けてUPします。本日は、その第一回です。おつきあいいただけましたら、幸いです。

<以下講話本文>

 皆さん、こんにちは。私がすき焼き「ちんや」六代目の住吉史彦です。本日はお招きいただき、有り難うございます。今回福島県酒造組合の新城会長から清酒アカデミーで話しをして欲しい、というお話しがありました時、私「これは必ず行かねばならない!」と思いました。

 その理由は勿論、今晩東山温泉の芸者さんが接待してくれるから、であります。

 「・・・」

 あ、スミマセン、ここは笑っていただくところだったんですけどね、まあ、いいでしょう、早速始めますね、そういう次第で浅草から会津へやって参りました。

 本日は、老舗の生き抜き方というものをお話しせよ、という御題でございますので、そういう方面の話しをさせていただきます。本来自分で「老舗」と自称するのは僭越な話しではあるのですが、他に適当な日本語がありませんので、使うことにいたしまして、つまりは浅草の、すき焼き屋ですとか、天麩羅屋ですとか、鰻屋ですとか、蕎麦屋ですとか、そういう仕事を永年して来た店が、時代の変化や危機をどのように乗り切ってきたか、をお話ししてみたいと思います。御参考になれば嬉しいです。

 さて、この話しをお聞きいただくに当たって、以前の浅草がどれほど繁栄していたか、それから20世紀の前半に、どれだけ手ひどく被災したかを、まずお話ししておきます。それを知っていただかないと、本編の話しにリアリテイーが持てないと思いますので、まずはそこから始めますが、おつきあいいただきたいと存じます。

(予備知識①=江戸時代までの浅草)

 さて浅草という街は、太田道灌が日比谷の辺りに江戸城を築くかなり前から存在していました。浅草寺の縁起によりますと、推古天皇の時代に浅草寺が建てられた、ということになっています。推古天皇と言えば7世紀ですね。

 この話しは歴史としては確認できていませんが、奈良時代に大きな建物があったことは考古学的に確実だそうです。ですので、なにしろ江戸の街が出来る遥か昔から、浅草が在ったのは確実で、つまりは街の成り立ちが違います。この段階では、まだ浅草は浅草寺の門前町という位の街でしたが、そういう街が江戸とは別にあった、ということを、まずはご記憶下さい。

 その浅草の南西に江戸城が出きまして、そこへ今度は徳川幕府がやってきます。話しが長くなるので、細かい話しは割愛しますが、この位置関係が、この後の浅草の歴史を決定づけてきます。

 まず江戸幕府は、浅草と江戸城の間つまり浅草の少し南に米蔵を建設します。武士の給料である米を蓄えるためですね。最初の江戸市街は、現在の千代田区と中央区を合わせた位の広さしかなく、その北の土地は空いていました。

 AKBの秋葉原なんて、文字通り原っぱだったわけです。はい、サシ子さんねえ、残念でしたけどねえ。え~何でしたっけ?

 そうそう、江戸と浅草の間に土地がありまして、なおかつそこは隅田川から荷卸しをしやすい場所でした。今の地名で「蔵前」と言っているところですね。ですので、そこへ蔵を建設したわけです。場所は、お分かりになりますか?都営地下鉄浅草線で、浅草から日本橋方面つまり南方向に乗りますと1個目の駅、それが蔵前です。

 さて、この時イキナリ浅草のすぐ南に大きな大きな経済力がやって来ました。この蔵の米を商う「札差」という商人たちは、大層な金持ちだったと歴史に出てきます。皆さん、歴史にくわしいとこういう時に自慢できますね。

 やがて幕府は浅草の北方の田圃の中に吉原を造営しました。公認の遊郭ですね。遊郭は風紀を乱すので、江戸市街から追放して、鬼門である北の方へ、ということです。北の皆さんには申し訳ないですけどね。

 そして続いてさらに、浅草と吉原の間に歌舞伎町を建設しました。歌舞伎町って言っても、キャバクラやお姐の店が在る街じゃないですからね、「暫」とか「助六」とか、そういうお芝居を演る街です。当時の歌舞伎は芸術ではありませんで、ショー・ビジネスでしたから風紀を乱しますね、それで江戸の中心からどけたわけです。 

 この場所に今行ってみますと、吉原は戦後に売春禁止になりましたので、ソープ街に変わっていまして、かつての文化度はありませんね。かつての吉原は、当時の工芸美術・服飾美術の粋を凝らしたものだったわけですから、現状はやはり残念としか申す他ありません。

 歌舞伎座のあった所はごく普通の街になっています。明治時代に銀座へ移転したからですが、まあ、そういうことは後の話しです。今は、この時点=1850年頃の浅草の状況を想像してみて下さい。

 さあ、どうなっていたでしょう。

①浅草の中心には浅草寺(=宗教)があり、その北に、

②猿若町(=歌舞伎エンターテインメント産業)があり、さらにその北に、

③吉原(=セックス産業)が並んでいました。そして、

④浅草の南には米蔵(=経済力)が集中していました。

 どうです、バチカンとラスベガスとウオール街が同居してるようなもんですね。これほどのラッキーさの中で、天下一の盛り場・浅草は成立したのだ、ということを、是非把握しておいていただきたいです。この状況に比べると、スカイツリーくらいは大したことがないということが、すぐわかります。

 さて明治時代です・・・

<この話しは、長いので8回に分けてUPします。本日は、その第一回でした>

追伸①

 藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に載せていただきました。
 不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

 他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

 是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
 ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸②

 「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は262人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 参加者の方には、特典も! 

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて856日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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生レバ食文化

 7/1よりスタートした「生レバー」禁止には、賛否両論あるようですね。

 提供してきた焼き肉屋さんが反発しているのは分かりますが、一般消費者の方からも「生レバー」擁護論が根強いようです。放射線を照射すれば食える、という論まであるそうで驚きます。

 この件で私が気にしますのは、一般消費者の方が食中毒に関する情報に日頃充分接しているかどうか、です。

 「生レバー」による食中毒は1998~2010年の間に116件も発生しています。普通の生牛肉の場合は、同じ期間に5件です。

 肉の場合は組織の内部に食中毒菌が入りこむことは、ほとんどないので、こういう結果になります。それに「肉が5件」と言っても、多分挽き肉か成型肉でしょう。挽き肉は、練り込む時に内部に菌が入ってしまいやすいので、たまに食中毒が起きます。それでもレバーに比べると、相当安全であることが、すぐ分かります

 このような食中毒のニュースって、ハッキリ申して面白いニュースではありませんから、一般の方があまり接していないのでは?思います。だから、

 みんな食べているし、おいしいのに何で禁止するの?

という意見が出てきます。

 民主主義を否定する気はありませんが、こういう問題では、専門家の指導に従った方が良いように思います。

 レバーの中のO-157を減らす研究もなされているようですが、なにしろO-157は数個存在するだけで食中毒を引き起こしますから、安全にするのは、相当ハードルが高いと思われます。

 それから、もう一言。「食文化」を、こういう形で規制するのはオカシいという御意見もあるようですが、私辺りの感覚では、「生レバー」は「食文化」と称して良いほど成熟した食べ方ではないように思います。 

 日本には、もっとデンジャラスなものを食す文化があります。それは・・・

「河豚の卵巣の糠漬け」です。

 石川県のごく一部の地方で作られている郷土料理=珍味です。

  ご存じの通り、河豚の卵巣には肝などと同様に、致死性の高い「テトロドトキシン」という毒素が多く含まれているため、そのままでは食用にできません。しかし、その卵巣を2年以上にもわたって塩漬け⇒さらに糠漬けにする事で、毒素を消失させ珍味として食しているのです。

 日本の「食品衛生法」は、河豚の卵巣を食用することを禁止していますが、全国で石川県の美川・金石・大野地区で作られた、この漬物だけは、許可されているのです。これは、大変な食文化です。

 出来上がった漬物は、石川県予防医学協会による毒性検査を受け、毒素が消失したことを確認した後に出荷されている、と言いますから、ここまでの体制を組んでいれば、文化と称しても、許されましょう。

 以前河豚の肝を食べて亡くなった歌舞伎役者さんがいたそうですが、その行為が食文化なのでは決してなく、無毒化して安全に食べられる体制を組んでいることが、食文化なのです。

 2005年に輪島の朝市で、一件食中毒事件があったそうですが、それは無免許業者によるもので、漬け込み期間も浅く、勿論、すぐに追放されたそうです。

 これに比べると、生の牛肝を何の工夫も無く、そのまま提供して、事故を起こし続けている「生レバ食文化」って、本当に文化なの?っていう疑問が湧いて来ますよね。

 「・・・」な「食文化」を、私は文化と認定したくありませんね。

って、今日はチト辛口でしたかね。

 スイート住吉に戻さなきゃ。

追伸①

 藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に載せていただきました。
 不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

 他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

 是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
 ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸②

 「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は237人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 参加者の方には、特典も! 

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて855日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

Filed under: すき焼きフル・トーク,ぼやき部屋 — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)

豆腐屋さんの笑顔計画

 先日Team Soy Yes の皆さんが見えました。

 皆さんが、豆腐とか納豆とか、豆関係の御職業の方、というメンバーです。

 しかも48名様と大勢で、弊店が実行中の「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」に参加して下さいました。有り難いです。

 このTeamのリーダーで、「すきや連」のメンバーでもある、「下仁田納豆」のNn都さんから、挨拶をして欲しい、という御要望がありましたので、勿論喜んでお引き請けしました。以下が全文です・・・

 皆さん、こんばんは、「ちんや」六代目の住吉史彦でございます。

 Nn都さんから「1千人の笑顔計画」の説明をして欲しい、というご要望がありましたので、致しますが、お配りした資料の通り、ややこしい所は一つもありません。

 まず、東北の牛を食べていただき、食後に飛びっきりの笑顔を撮影させていただき、その笑顔画像を「ちんや」のサイトにUPします。

 また皆さんが「ちんや」においでの間にプリントアウトも致しまして、その紙焼き写真を、次回持って来ていただくと、そのままクーポンに成って優待がある、という簡単なシステムです。

 今日全員が参加して下されば、参加者の数は230人になりますが、それを1千人まで続けよう、という試みです。

 さて、この企画は大震災という事態を受けまして、東北で牛を飼っている人達のためにやっているわけですが、それだけではありません。手前ども「ちんや」と御客様の間にも、損得勘定だけでない、もう一段深い関係を作って行きたい、そういう願いも込めて推進しています。

 写真のクーポンは、我々サイドからしますと、優待させられて嬉しいクーポンです。普通のクーポンは優待させられて腹立たしいですから、違います。嬉しいという感情が産まれる所がかなり違うと思います。

 ちょっと思い出していただきたいのですが、地震の後に、家族の絆・友人の絆・地域社会の絆というものが語られることが多いと思いますが、店と客の絆は、ほとんど語られませんね。皆さんも、ほとんどが御商売の方と思いますが、残念じゃありませんか?

 私は、実は数年前から、手前ども「ちんや」と御客様の間にも、損得勘定だけでない、もう一段深い関係を作って行きたい、そう考えて「すき焼き思い出ストーリー」とか「すき焼き川柳onツイッター」とか「記念日割引」とか、いろいろやって参ったのですが、地震の後に、店と客の絆のことが、ほとんど語られないのを視まして、これは残念だ、もう一段頑張ろう!と思って始めましたのが、この「笑顔計画」であります。

 だいたい「地域社会の絆」とか申しますが、その主役は、街の米屋さんや、肉屋さん、酒屋さんや、八百屋さんや、魚屋さん、それから味噌屋さん、豆腐屋さん、納豆屋さんですよね。商売をする中で、住民の顔と名前を覚え、性格や家庭状況を覚えている人が地域の主役であって、ただ住んでいるだけの人は、脇役です。

 でも、商売している=営利企業=儲けているという、枠組みの中に居るので、絆話しには成りにくいんだと思います。 これは実に残念な話しでして、実際問題、〇〇屋の皆さんは、知り合い相手の商売ですから、大して儲けてはおらず、所謂「三方良し」の関係の御店ばかりと思います。

 ですので、店と客の間にも、損得だけで無い一段上の、信頼関係を作ることは、必ず出来る話しだと思って続けています。この「笑顔計画」も、その一環です。

 ですので、皆様にご協力いただけますことを、本当に嬉しく思っています。本日は御来店、誠に有り難うございました。

 この日の笑顔画像をこちらのサイトにUPしましたので、ご覧ください。

追伸

 藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に載せていただきました。
 不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

 他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

 是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
 ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて854日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

元祖すき焼きキャラ

 「サシコ」嬢が異性問題で左遷されるまで、HKTの存在を知らず、興味も勿論無かった私ですが、HKTに「元祖すき焼きキャラ」なる人物がいることを知り、

 へええ!

と思いました。

 彼女の名前は中西智代梨さん。HKT48チームHの所属で、相性イヤ愛称は「ちょり」だそうな。

 聞けば、「ちょり」さんの「朝からすき焼き大丈夫」というキャッチフレーズは既にすっかり定着しているらしく、さらにもう一人の別の方=阿比留李帆さんも対抗して、「政見放送」の終わりに唐突に「朝からすき焼き食べれます」と表明した、というから熱が入っています。

 公演中にも「フレッシュすき焼きになりたいの~♡」と叫んでいるらしいのです。

 そういうことで「ちょり」さんは、「生誕祭」~誕生日のことですが~にファンからすき焼きを贈られて、その喜びをブログに書いておられます・・・

 「今日は「ちょり」の生誕際でした(^^)

 凄くいい思い出になりました♪

 サプライズでケーキが出てきたと思ったら、まさかのすき焼きという…♡

 公演の後、美味しくいただきました*ε☆」

 え? だから、どうなんだって?

 いや、どうでもいいんですけどね、勿論。だいだい、生誕際の際の漢字が違ってますけど。

 でも、御蔭様で弊ブログが1日分稼げました。

 「ちょり」さん、福岡は遠いから、私は行けないけど、頑張ってね♡♡♡

 来年は1票買おうかな。

 追伸①

 『料理通信』6月号に「ちんや」が紹介されています。

 この雑誌に服部幸應先生が連載なさっている、「世界に伝えたい日本の老舗」というコーナーの第37回に、お採り上げいただきました。

 有り難いことです。ご購読はこちらです。

追伸②

 「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は237人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 参加者の方には、特典も! 

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて853日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています

Filed under: すき焼きフル・トーク — F.Sumiyoshi 12:02 PM  Comments (0)

塩タマネギ

 おいしいタマネギを見つけましたので、変わりザクに使っています。

 それは、海水塩タマネギ。 

 佐賀県杵島郡白石町の農業法人「稲富ファーム」さん達が、海水塩を利用する珍しい栽培法でタマネギを育てています。

 以前から台風時に塩害(=潮風害)を受けた農地から品質の良い作物ができるケースがあり、稲富ファームはそれをヒントに農法の研究を重ねてきたそうです。7年前ほどからタマネギ栽培に、それを採用し、日本海の天然塩を水で薄めて定期的に葉面に散布しているそうです。

 甘さを引き出すとともに、減農薬栽培もできると聞きます。

 食しますと、甘みが濃く、ミネラルも濃いような気がします。

 佐賀県では、甘みのある食感を前面に打ち出し、「全国有数のタマネギ産地」をアピールしてきたいそうな。

 大いに結構と思います。

 先日のTeam Soy Yes の皆さんのご宴会でも使ってみました。

 皆さまも、是非弊店でお召し上がり下さい。

追伸①

 『料理通信』6月号に「ちんや」が紹介されています。

 この雑誌に服部幸應先生が連載なさっている、「世界に伝えたい日本の老舗」というコーナーの第37回に、お採り上げいただきました。

 有り難いことです。ご購読はこちらです。

追伸②

 「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は230人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 参加者の方には、特典も! 

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて852日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

Filed under: すき焼きフル・トーク — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)

Team Soy Yes 

 Team Soy Yes の皆さんが見えました。

 皆さんが、豆腐とか納豆とか、豆関係の御職業の方、というメンバーです。

 しかも48様と大勢で、弊店が実行中の「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」に参加して下さいました。当然、東北・北関東の牛を食べていただき、そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただき、その笑顔画像を「ちんや」サイトにUPします。(請う、御期待)

 さて、このTeamのリーダーは、「すきや連」のメンバーでもある、「下仁田納豆」のNn都さんです。

 で、こういう知り合いが見えた時、私は料理の実験台に成ってもらうことにしています。

 今回お出ししてみましたのは、チンゲンサイ。それを春菊の代わりに、ザクとして、すき焼きの鍋に入れて食べるのです。

 なんでまた、チンゲンサイなのかって?

 そりゃあ、「ちんや」だかからですよ。

 そう、オヤジギャグですね、つまりは。

 しかしですね、チンゲンサイを入れたのは、ギャグばかりではありません。合うのです、結構、すき焼きに。

 そもそもチンゲンサイは「中国野菜」のカテゴリーに入っていますが、アブラナ科アブラナ属の野菜で、白菜・野沢菜・水菜の仲間です。

 中華料理と一緒に日本に入って来たので、中華イメージに成っていますが、食べてみると特段、中国っぽい香りはありませんね。そこが香菜とは違います。香菜はセリの仲間ですからね。

 実際、チンゲンサイはアクが無く、煮崩れないため、スープや煮込み料理に向いています。また、中華料理に合うだけに、油と相性が良く、当然すき焼きにも良さそうです。白菜の仲間ですが、白菜ほど水は出ません。

 炒めても茹でても、あまり量が変わらず、しゃきっとした歯触りが楽しめます。春菊が哀れにも縮むのに対して、鍋の中で堂々としています。

 だから、今後すき焼きの常連の具に出来ないか、真剣に考えています。

 いたみが速いという問題もあるようですが、最近は「50℃洗い」という方法もあるので、少し工夫してみたい思っています。

 Team Soy Yes の皆さん、実験台有り難うございました!

 追伸①

 『料理通信』6月号に「ちんや」が紹介されています。

 この雑誌に服部幸應先生が連載なさっている、「世界に伝えたい日本の老舗」というコーナーの第37回に、お採り上げいただきました。

 有り難いことです。ご購読はこちらです。

追伸②

 「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は230人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 参加者の方には、特典も! 

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて851日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

 

Filed under: すきや連,すき焼きフル・トーク — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)