すき焼きの歴史と現在~若き料理屋さん達のために③
全国料理業組合「芽生会」関東甲信ブロック会議で、すき焼きについて講演することになりました。
「芽生会」と申しますのは、各料理屋さんの若手後継者の集まりです。講演場所が同業の名店「太田なわのれん」さんなので、正直かなり話しづらいですが、若い料理屋さん達の参考になりますよう、頑張って原稿を準備しました。
ここでも公開してまいりますので、ご覧下さい。長いので5/12から5/21まで10回に分けて公開いたしますね。
<以下本文>
時に皆さんは15代将軍・徳川慶喜のあだ名を知ってますか?「暴れん坊将軍」じゃないですよ!それは松平健さんですからね。慶喜は豚が好きで食べるので、「豚将軍」「豚一殿」とあだ名されていたんですね。将軍が豚を食べる位ですから、牛鍋屋も、もはやアングラではなく、公然と開業し始めます。
高橋音吉が「太田なわのれん」を創業しましたのは、そんな中のことでありまして、1868年すなわち明治元年のことでございました。
やがて牛鍋屋の開業ブームは横浜から江戸にも飛び火します。1867年に中川嘉兵衛という人が江戸のはずれ荏原郡今里村に屠牛場を設立しまして、江戸の牛鍋屋にも牛肉が供給されるようになります。
その場所は後の芝白金今里町、現在の白金台2丁目です。その辺りは今では、シロガネーゼのお洒落な街ということになっていますけど、当時は田舎だったんですね。
で、この屠牛場は近代的な屠殺場であったようです。当初は外国人向けが主でしたので、衛生的な取扱いには気をつかっていたようで、それで、今日の感覚からすると少し驚く話しですけど、この屠牛場で屠殺した牛がブランド牛になって行きます。どこで飼われていたか、ではなくて、どこで屠殺されたか、がブランドだったんです。
今でも「今半」さんとか、「今朝」さんというすき焼き屋さんが在りますが、「今」の字が入っているのは「ウチは今里村屠牛場~後には「東京共有屠牛場」という名前になりますが、そういうチャンとした所から牛を買っている、チャンとした店だ!」ということを主張しているですね。
ももんじや系の店でも牛鍋を出していたわけですが、「同じような料理だけど、私屠殺の牛は使ってないよ!」という意味が店の名前に込められているわけです。トリビアでしょう!次にカノジョと「今半」さんに行ったら話して自慢してみましょう。
さてさて、1872年ついに明治天皇が初めて牛肉を召し上がりました。そのことが報道されて、肉食は完全に解禁。解禁どころか、文明開化のシンボルになります。
1877年の東京における牛鍋屋の数は550軒を超えるほどであった、と伝えらえていますから、いかに当時の牛鍋のブームがスゴかったか、お分かりいただけると思います。今日すき焼き屋を続けている店のほとんどが、この頃に開業した者の生き残りです。
ただし、言い方は変わっていますね。関東では大正時代まで「すき焼き」と言わず「牛鍋」と言っていましたから、我々は牛鍋屋の生き残り、というのが正確です。
ここで昔の調理方法のこともお話ししておきましょう。
「なわのれん」さんの食べ方は味噌煮込みですが、このやり方は、今では珍しいですが当時は珍しい方法ではなかったようです。
明治初期の牛肉は、そもそも肉用に育てられていませんから固くて、また放血の仕方が上手でなかったために獣臭さがキツかったようです。それで、それを緩和するために、ぼたん鍋や紅葉鍋に類似した方法で調理したようです。つまり味噌仕立ての味付けでした。
後に肉質が良くなるにつれて、味噌から醤油と砂糖などで作る割下で煮る方法が主流になっていったようです。一方、関西では、皆さんご存知の通り、醤油と砂糖を事前に煮合わせないで、鍋の上で混ぜる方法が主流です。
具材の内容ですが、・・・
<本日分は終わり>
この話しは長いので5/12から5/21まで10回に分けて公開いたします。明日もよろしくお願い申し上げます。
追伸①
TV東京『和風総本家』に「ちんや」が登場します。
「ちんや」に豆腐を納めて下さっている「市川食品」さんを密着取材する特集の中で登場します。5月16日(木)21時~放送です。ご覧ください。
http://www.tv-osaka.co.jp/ip4/wafu/
追伸②
「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。
この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。
その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。
現在の笑顔数は351人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。
皆様も、是非御参加下さい!
本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.167日連続更新を達成しました。
毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。
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