ちんやさんと祖父、そして私
久しぶりに「すき焼き思い出ストーリー」にご投稿がありました。M-IKE さん(埼玉県 50歳 )から頂いた投稿は、こちら↓です。
<以下ご投稿>
私は、ちんやさんへは、一度しか行ったことがありません。しかしそれは、とても大切な思い出です。
私の祖父は、陸軍中野学校の一期生でした。陸軍中野学校というのは、諜報員を養成していた学校です。
祖父は徴兵で軍隊に入り、軍の命令で中野学校に入りました。その後海外に派遣され、終戦時は参謀本部勤務、対英情報を担当していました。最終階級は少佐です。
戦後は公職追放を受け、小さな会社を転々と、入ってはつぶれ、入ってはつぶれ。新潟県出身の祖父は、最終的に愛知県の小さな会社に落着きました。一時は陸軍の中枢で戦争の根幹、国家の方針を決める場所の近くにいた祖父は、戦後、愛知県の小さな会社で経理を担当していたのでした。
その愛知県で生まれたのが私です。孫の私からすると、かつては兵隊から少佐にまでなった「たたき上げの出世頭」だった祖父が、戦後は「パッとしない」仕事に就いているのが不思議でした。
「おじいちゃん、何で自衛隊に入らなかったの?」このように私は祖父に聞いたものです。すると祖父は、「私は参謀本部の情報担当だった。私には、日本が戦争に負けた責任がある。だからもう制服は着られない。」と答えるのでした。幼い私には、その意味がよく解りませんでしたが、「格好良い」との印象を受けたのでした。
その祖父は、私が高校を卒業し、浪人生だった頃に亡くなりました。思春期の頃は反抗したこともありますが、尊敬していましたので、大学に入ったら、祖父から中野学校のことを色々聞こう、そう思っていました。そう思っていた、そして何も行動に移さなかった時に、祖父は他界したのでした。
その後、私は大学に入学し、中野学校のことを卒業論文に書きました。
祖父は中野学校時代の日記を残しています。その中に「ちんや」さんに行った旨の記載があります。1939年のことです。
「所長と浅草に向ふ。『ちんや』にてすき焼きを食し聚楽にてフルーツ」(この「所長」とは秋草俊さんのことです。)
大学卒業後、愛知県の小さな会社に入った私は、その後転職し、今は東京の事務所に勤務しています。
上京した私は、折角地方から東京に来たのだから、一度祖父の日記にある「ちんや」さんに行ってみたい、そう思い足を延ばしたのでした。
祖父の話をご紹介した上で予約をし「ちんや」さんに行くと、ご主人がいらしてくれました。「ご縁のある人に来ていただけて嬉しい」と歓迎してくださいました。
1939年と2000年代が繋がった瞬間でした。「ちんや」さんへは、私自身が来たわけではありません。祖父が昭和14年に来ただけです。しかし、でも、確実に、その時の私と祖父は、「ちんや」さんを通じて繋がっていたのでした。同一な存在になっていたのでした。
亡き祖父と共に、美味しいすき焼きを頂いた思い出は忘れることができません。「ちんや」さん、ありがとうございました。
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本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。 弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし、本日は4.147本目の投稿でした。
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