福澤先生と肉食①
福澤諭吉先生と明治の食文化について考えるという、ステキな研究をしている方が訪ねて来られたので、私の知っている限りで「福澤先生と肉食」についてお話ししました。
以下は論文には到底ならない私の暴論・雑感ですが、「先生と肉」で重要だと私が思うのは、
『肉食之説』(明治3年)と
『福翁自伝』(明治32年)の「緒方の塾風」(適塾のくだり)です。
出版年代としては『肉食』が先ですが、中身の年代では『福翁』が先なので、そちらから行きますと、先生は安政2年(1855年)から緒方洪庵の「適塾」で学びました。『福翁』には、その頃牛鍋屋に通っていたと書いてあります。
幕末の大阪には牛鍋屋が2軒。内1軒の難波橋のたもとに在った店は「最下等の店」で「ゴロツキと緒方の書生ばかりが得意の定客」の店。
「何処どこから取寄せた肉だか、殺した牛やら、病死した牛やら、そんな事には頓着なし」「牛は随分硬くて臭かった」とか。
ゴロツキばかりと言うのですから、その場所は所謂「悪所」です。現代大阪にも飛田とかに風俗街が在りますが、牛鍋店の場所はそちらの方角ではなく、北浜の証券取引所が今ある所の近くにありました。今ではもちろん金融街です。ビックリですね。北浜には18世紀半ばから金相場会所や俵物会所があって、大阪の経済の中心だったわけですが、そのすぐ傍に遊郭があったとは意外なことです。
「適塾」は淀屋橋にありましたから、そこから北浜の方向(東)に向かうと、難波橋に牛鍋店。ゴロツキが関係していた蟹島遊郭は、牛鍋店の場所からさらに1ブロック東にあったようですが、明治後半から寂れて1911年に消滅しました。
先生が牛鍋屋に行ったのは、滋養強壮というよりズバリ安く飲めたからです。「便利なのは牛肉屋だ」と言っています。当時の先生は「少しでも手許てもとに金があれば直すぐに飲むことを考える」「酒を飲むことでは随分塾風を荒らした事もあろうと思う」といった調子であったようです。
後に先生は『肉食之説』で「今より大に牧牛羊の法を開き、其肉を用ひ其乳汁を飮み滋養の缺を補ふべき」と推奨しますが、この頃はそういうことより飲むのがお好きだったようです。
ここで気づくことは、先生には清潔でない環境に対する免疫があったようだということです。先生だけでなく緒方の塾生は皆「不潔に頓着せず」という風で、暑い時季は全裸で過ごしたりしていたそうですが、この環境から多くの偉人が育ちました。
いくら酒好きで安く飲みたいと思っていても、不潔な店を我慢できなければ行けませんよね。コロナ恐怖症の現代日本人は、この牛鍋屋に行けません、ゼッタイ(笑)
先生が平気だったのは、幼い頃貧乏したからか、病人に接する医者を志していたからか。
ともあれ「不潔に頓着せず」という気質があったので平気で安い肉を食えたのです。
だいたい一般に食への好奇心が強い人は清潔にこだわらない人が多いです。不潔への懸念を食への好奇心が凌駕していて、なんでも食べてしまう人がグルマンになることが多いです。『福翁』には「私は大阪に居るとき颯々と河豚も喰えば河豚の肝も喰って居た」とも書かれていて、いくらグルマンでもこれは危険ですね。先生が河豚の肝で亡くなっていたら、日本の近代化はだいぶ遅れたことでしょう。
先生は、そうしたグルマンの一人で、その気質が先生を肉食へ向かわせたと私は思っています。
やがて先生は肉食に「滋養」という理屈を付けるようになりますが、それは明日の弊ブログで。
*追伸、「ちんや」が使っている千住葱の動画がNHKアーカイブスのサイトで見られるようになっています。この動画は、今年3月にNHK-BSで放送された「新日本風土記」を再編集した動画です。
本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。
弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし本日は3.825目の投稿でした。引き続きご愛読を。
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