中川屋嘉兵衛
中川屋嘉兵衛の子孫だと言う方が、すき焼き川柳を投稿して下さいました。
「ちんや」の以前からのお客様が、その方の縁戚にそういう人がいるとは知らずに、「ちんや」から肉を贈ったのですが、そのギフトの包装紙の裏面は「すき焼き川柳コンクール」の投稿用紙になっているので、その用紙を使って投稿して下さったわけです。
さて中川屋嘉兵衛(なかがわや・かへい)は東京の食肉の歴史で重要な人物です。
中川屋は三河の出身。40 歳で江戸に出て、イギリス公使の料理人見習いをしながら英語を勉強。欧米人相手のビジネスをやろうと計画します。要するに幕末・維新期のベンチャー起業家の一人です。
そして1865年、横浜に居を移しました。そこで外国人の間で牛乳のニーズが非常に高いのを知った中川屋は、これを事業にします。
やがて横浜に駐留していたイギリス軍の御用食料商人に。今度は肉のおいしさと栄養価、そして横浜に在留する欧米人が牛肉好きなのを実感すると、牛肉の販売を新しい事業にします。まず横浜で。東京にも進出します。
既に横浜に牛の屠場はありましたが、東京にはありませんでした。鉄道も自動車もなく、冷蔵・冷凍保存の技術もなかった時代ですから、高輪のイギリス公使館まで、横浜から鮮度を保って肉を運ぶのは至難の業でした。
そこで中川屋は公使館のすぐに近くに屠牛場を設けたほうがいいと考え、白金に土地を借りて、そこで1867年屠牛場と牛肉販売店を開設。
これが東京初の牛の屠場です。御一新後の1869年には官営「築地牛馬会社」が築地に出来ますが、中川屋の屠場はそれに先行していたので、「東京初」と言えます。
白金とは、現在の港区の白金です。今は「シロガネーゼ」の街ですが、当時は江戸の郊外の農村でした。
このように中川屋嘉兵衛は東京の食肉の歴史で重要な人物です。その人物の子孫だという方からいただいた川柳は、
・すき焼きやこんな霜降り食べたかな
・すき焼きや接待していた頃もあり
・すき焼きは久しぶりだと涎たれ
・すき焼きの肉の厚さに見とれたり
ご投稿ありがとうございました。
*すき焼き・しゃぶしゃぶは、鍋でウイルスを加熱殺菌してすぐ食べるので、非常に安全な食べ方です。安心してお召し上がり下さいませ。
こちらで通信販売もしています。
よろしくお願い申し上げます。
本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。
弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし本日は3.810目の投稿でした。引き続きご愛読を。
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