会津と郡山

会津若松の方々が見えました。
このたび旧知の「末広酒造」新城さんが会津若松観光ビューローの理事長に就かれたのですが、新城さんは会津=浅草の観光ルートを創りたいと言います。会津鉄道・野岩鉄道・東武鉄道を経由して、会津と浅草が直結しているからです。
で、東武・浅草駅で観光キャンペーンをなさるとか。猛暑の最中でしたが、青年部の方も含めて15人ほどの、御一行様でした。
さて、施主が酒蔵のご主人ですから、交流会は当然「酒盛り」となりました。すき焼きには「山廃仕込み」のお酒を燗するのが良いということをあらためて確認致しました。
そのお酒のことも当然書きたいのですが、それはややテクニカルな話しになるので、後日にまわすことにしまして、今日は二次会で話題になった、会津と郡山の食文化の違いについてです。
もんじゃ焼きの「おすぎ」さんが週末の夜中にバーをやっているので、会津の方々と行ったのですが、その時、
会津は牛をあまり食べない、豚が中心。郡山の方が牛を食べる。
という話しが出ました。
そうですね、私もそう思っていました。
福島県、新潟県、北関東3県は「豚食い文化圏」でして、すき焼きも豚でする人が多いのですが、そんな中でも郡山だけは牛を食べます。「京香」さんという、明治17年(1884年)ご創業のすき焼き店もあります。
食が違うのは歴史が違うからです。
会津若松の歴史は14世紀まで遡れるのに対して、郡山は明治時代に発展した街です。
明治11年(1878年)安積疏水を掘削するために人が集められて街が出来、やがて疎水の水で水力発電が始まって工業化が進み、さらに鉄道がひかれた時に郡山が分岐点になって発展。郡山は県庁所在地でないのに県内最大の都市になって行きます。
一方の会津は朝敵だったこともあり、大きく発展することはなく今日に至っています。
さてポイントなのは、疏水を掘削するために、どういう人が集まったか、です。
疏水掘削と安積原野開拓は、「士族授産」事業でした。明治9年(1876年)の「秩禄処分」により禄がなくなった士族に仕事を与えるための事業だったのです。
だから、全国の色んな地方から人がやって来たのです。今回の二次会で、未確認情報ですが、久留米から来た人が多かったと聞きました。
この時代の福島は新時代と旧時代が同居していたとも言えます。
そういう次第ですから、郡山には新しい食も入ってきました。
牛鍋もその一つで、「京香」さんのご先祖が、郡山における「食の開化」の担い手でした。
明治150年。街に歴史あり。食文化あり。

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて3.071日連続更新を達成しました。
すき焼き「ちんや」六代目の住吉史彦でした。

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