ワンフレーズ・ポリティクス

味を正確に理解するのは、結構、難しいものです。ある程度のレベルの科学的知識が必要です。

例えば肉の旨味を理解するには、肉のタンパク質が熟成によってアミノ酸へと分解されていく過程を理解する必要がありますし、また脂肪がどのような脂肪酸によって構成されているのか、その脂肪酸の融点が何度なのかも知る必要もあります。

しかしですよ、そんなことを知らなくても、昔から旨い肉は旨いものですよね。

以前は、アミノ酸も脂肪酸もご存知なくても肉を目利き出来る職人さんがいましたし、消費者も自分の舌で旨い肉を選別していました。

その日本人の「舌の力」が衰えて来たと最近私は痛感しています。

代わって人々が言い始めたのが産地名です。あちらのマグロに、こちらのサバ。

舌で味わうことが出来なくなり、しかし代わりに高等な化け学で味を理解することも出来ず、人々は簡略な情報だけで味を判断するようになりました。「味のワンフレーズ・ポリティクス」と申せましょう。

ワンフレーズは全盛を極めていますが、私は勿論気にいりません。丁寧な仕事にワンフレーズが勝つような国にはしたくないですよね。

 

追伸

慶應義塾の機関誌『三田評論』の10月号に出演させていただきました。

『三田評論』には毎月「三人閑談」といって、三人の卒業生が対談するコーナーがあるのですが、今月のテーマが「和牛を食す」で、そこに入れていただいた次第です。

『三田評論』は基本的には定期購読者のみが読む本ですが、紀伊國屋書店の新宿本店で小売りしているそうですから、ご興味のある方はどうぞお求めください。

 

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて2.066日連続更新を達成しました。

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浅草食べ物放談

友吉鶴心さんと対談しました。

鶴心さんは琵琶奏者で、NHK大河ドラマの邦楽監修もしている売れっ子ですが、今回の対談は邦楽の話しはちょっとだけ、でした。

実は、鶴心さんは私の浅草小学校の同級生です。住吉・友吉ですから席も近くでした。ですので「鶴心さん」と言うと変な感じです。なにしろ集団登校で一緒に登下校した仲ですのでね。

そういうわけで、今回は浅草食べ物放談。

まず私が収集した「すき焼き思い出ストーリー」を読んでいただいて、その中から浅草らしいもの、面白いものを選んでいただきました。

友吉さんのコメントは、弊社が創業135年を記念して刊行する『読みつぎたい~すき焼き思い出ストーリーの本』に収録します。

それから、いよいよ浅草食べ物放談。

友吉君は、いや、鶴心さんは甘いものに目が無いんですよね。とにかく餡子にはお詳しい。なかなか面白い対談になりました。放談部分も『すき焼き思い出ストーリーの本』に収録します。

この本は、上手く行けば年内に刊行予定。

非売品ですが、ご希望の方には実費でお分けします。お楽しみに。

 

追伸、

慶應義塾の機関誌『三田評論』の10月号に出演させていただきました。

『三田評論』には毎月「三人閑談」といって、三人の卒業生が対談するコーナーがあるのですが、今月のテーマが「和牛を食す」で、そこに入れていただいた次第です。

『三田評論』は基本的には定期購読者のみが読む本ですが、紀伊國屋書店の新宿本店で小売りしているそうですから、ご興味のある方はどうぞお求めください。

 

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて2.065日連続更新を達成しました。

 

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神輿大全

浅草の神輿・神具製作店の店主・宮本卯之助さんが書かれた御本『神輿大全』を読んでいます。

「宮本卯之助商店」さんについてはあまりに有名ですが、念のため説明しますと、ご創業は文久元年(1861年)。当初は太鼓を作り、やがて神輿も作るようになって百四十余年になります。当代の卯之助さんは、その七代目です。

大正天皇御大葬用楽器一式を納めて以来、宮内庁御用業者と成り、太平洋戦争で浅草神社(三社様)の神輿が焼失した時は、もちろん、その再建に従事しました。

さて、この御本は、神輿の基礎知識はもちろん、その種類や見方、制作過程、飾り紐のかけ方、選び方、手入れ・保管方法、修理などを網羅したものです。『大全』と言うのに相応しい内容で、神輿が日本の工芸技術の結晶であることが分かります。

拝読して私が気になったのは、宮本さんが実際に体験して来られた戦後の、日本の祭の変遷です。

戦災で都内の神輿の大多数が焼失したため、戦後は猛烈な忙しさだったそうです。浅草神社も戦後復興は祭りから!と昭和27年(1952年)までに神輿3基を再建しています。

しかし、戦後復興が一服し、高度成長が盛んになると祭りは人々の興味から外れて行きます。

やがてモータリゼーションが盛んになると、車の通行を妨げる祭りは、もう邪魔者です。三社祭も本来ご縁日の5月18日に行うものですが、平日に車を止めるのが難しいので、昭和38年(1963年)から「5月18日に一番近い金曜・土曜・日曜」に開催されています。

この時代に神輿製作に関わっていた皆さんが、どんなお気持ちで仕事に従事していたか、いつか聞いてみたいものです。

それから、もう1点。神輿製作の技術が素晴らし過ぎるのも気になります。

パーツは3.000点以上、工期は最低まる一年となると、値がはります。

それを買うのは神社の氏子なわけですが、地域コミュニテイーが弱っているような場合は、どうするんでしょうか。

とても気になるんですけど、ゲスですかねえ、そういう質問は。

 

追伸、

慶應義塾の機関誌『三田評論』の10月号に出演させていただきました。

『三田評論』には毎月「三人閑談」といって、三人の卒業生が対談するコーナーがあるのですが、今月のテーマが「和牛を食す」で、そこに入れていただいた次第です。

『三田評論』は基本的には定期購読者のみが読む本ですが、紀伊國屋書店の新宿本店で小売りしているそうですから、ご興味のある方はどうぞお求めください。

 

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて2.064日連続更新を達成しました。

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お披露目会

浅草観音裏の老舗料亭「草津亭」さんは、移転・新装の為しばらくお休みされておりましたが、このたびめでたく新装オープンなさいました。

お披露目会にお招きいただきましたので、お訪ねしてまいりました。

移転前の草津さんには大広間があり、80人とか100人とかでも宴会が出来ました。和の宴会場としては都内最大級だったのですが、生活の洋風化や高齢化で畳に座れない方が増え、せっかくの設備があまり稼働しない状況になっていたと聞きます。

弊店も和の宴会場を持っていて、宴会はゼッタイ和が楽しいと思うのですが、一人でも「座れない」と言われてしまうとどうにもならず、情けない思いをすることがしばしばです。

そうこうする内、草津さんは建物の老朽化が進み、小幅に改装するよりは思い切って、移転・新装しよう!となった模様です。

店の規模は小ぶりになりましたが、お料理が結構なことは従来通り、芸者衆も従来通り来てくれて賑やかな夜になりました。

ご繁盛を祈念します。

 

追伸、

慶應義塾の機関誌『三田評論』の10月号に出演させていただきました。

『三田評論』には毎月「三人閑談」といって、三人の卒業生が対談するコーナーがあるのですが、今月のテーマが「和牛を食す」で、そこに入れていただいた次第です。

『三田評論』は基本的には定期購読者のみが読む本ですが、紀伊國屋書店の新宿本店で小売りしているそうですから、ご興味のある方はどうぞお求めください。

 

 

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて2.063日連続更新を達成しました。

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屋台のおでん

浅草のおでん屋「大多福」のご主人・船大工安行さんが書いた本『おでん屋さんが書いたおでんの本』を読んでいます。

この御本は「〇〇屋さんの書いた〇〇の本」シリーズの中で「名著」の呼び声が高い本です。昔の浅草の様子と屋台料理の関係のことが良く分かって面白い御本です。

寿司、蕎麦、天麩羅、おでんと言った屋台発祥の料理は、最も浅草らしい料理と申せましょう。

初期投資が少なくて済む屋台あるいは床店(とこみせ)と言った形態の店は、東京オリンピックの前に「不衛生」ということで追放されましたが、それまでは「ちんや」の在る浅草広小路にもたくさんの屋台が出ていたと言います。

昭和初期の恐慌の頃それまで高級料理を食べていた人達が食べられなくなって、そういう人達が気軽に憂さを晴らすのにおでん屋がちょうど良いという話しになり、それまで数軒しかなかった浅草のおでん屋さんが一気に二十数軒に増えたと書かれています。

「大多福」さんも大正4年に開業した時は床店でした。

床店とは商品を売るだけで人が住まない店のことです。当時たいてい商店には主の家族や奉公人が住んでいましたが、船大工さんのご先祖は土地の持ち主から、そのごく一部だけを借りて小さい店にしたそうです。

戦争も、戦後の浅草が寂しかった時代も乗り越えて、今は立派な店を構えておいでですが、ご主人は、これからのおでん屋は「屋台のおでんに戻って行く」と書いておられます。大量調理の時代になったからこそ、「屋台のおでん」だとおっしゃいます。

今日でもおでん屋とは「憂さを晴らす」為のもの=料理業としての経営理念がそのようにハッキリしているのはとても素晴らしいことと思います。

そう言えば弊店も「思い出をつくる、すき焼き店」。

そこを忘れないようにしたいものです。

追伸、

慶應義塾の機関誌『三田評論』の10月号に出演させていただきました。

『三田評論』には毎月「三人閑談」といって、三人の卒業生が対談するコーナーがあるのですが、今月のテーマが「和牛を食す」で、そこに入れていただいた次第です。

『三田評論』は基本的には定期購読者のみが読む本ですが、紀伊國屋書店の新宿本店で小売りしているそうですから、ご興味のある方はどうぞお求めください。

 

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて2.062日連続更新を達成しました。

蔵元の曾孫

ほお、すき焼きでしたか。流石は蔵元の曾孫。

結婚報道が出ている歌手のDAIGOさんと女優・北川景子さんとのデートは、しゃぶしゃぶではなくすき焼きだったそうです。

スポーツ紙によりますとDAIGOさんは、

「2日放送の日本テレビ系「人生が変わる1分間の深イイ話」(月曜後9・00)に出演。交際が報じられている女優・北川景子(28)との“しゃぶしゃぶデート”が写真週刊誌スクープされたことについて“誤報”だったことを明らかにした。」

「この日は「ゴールデンボンバー」の喜屋武豊と歌広場淳との飲み会の様子に密着。写真週刊誌「フライデー」がスクープしたDAIGOと北川との「お忍びしゃぶしゃぶデート」の記事について、2人から真相を問われると「ひとつ言えることがある」と切り出した。続けて「しゃぶしゃぶって書いてあったけど…」と話し、2人が前のめりになったところで「本当はすき焼き食べてました」と“誤報”だったことを告白した」

「それだけは言いたかった。だって違うんだもん」と強調したそうな。

DAIGO家=竹下家は島根県で300年つづいた旧家で、江戸時代には庄屋を務め、幕末の1866年からは代々造り酒屋を営んでいるそうです。

その竹下家の12代当主である登さんが総理に成り、孫のDAIGOさんが歌手に成り、今日に至っているわけです。

引き続き、今後もすき焼きをお召し上がり下さいませ。

 

追伸、

慶應義塾の機関誌『三田評論』の10月号に出演させていただきました。

『三田評論』には毎月「三人閑談」といって、三人の卒業生が対談するコーナーがあるのですが、今月のテーマが「和牛を食す」で、そこに入れていただいた次第です。

『三田評論』は基本的には定期購読者のみが読む本ですが、紀伊國屋書店の新宿本店で小売りしているそうですから、ご興味のある方はどうぞお求めください。

 

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて2.061日連続更新を達成しました。

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dancyu×髙島屋②

「dancyu×髙島屋 グルメの祭典」という催事に出店させていただいております。会場は玉川髙島屋さんです。

dancyuさんの仕切りですから、個性のある御店さんばかりが出ていましたが、その中に旧知の人のお店があるのは嬉しいことでした。

昨日2軒ご紹介しましたが、今日は山形県上山市の「丹野こんにゃく」さんをご紹介します。

こんにゃく料理が食べられる「楢下宿こんにゃく番所」は観光スポットとして有名なので、行ったことのある人もおいでかもしれません。私も「浅草うまいもの会」の旅行で行ったことがあります。

さて、その「こんにゃく番所」を経営する丹野さんが催事に出る時は、いつもこんにゃくとメンマを甘辛く煮て試食させています。ぷーんと良い匂いが会場に漂います。

それにしても、なんでまたこんにゃくとメンマなんでしょう?

お店のサイトを見ても「こんにゃくとメンマの食感の違いを楽しみながら召し上がっていただけます」としか書かれていないし、お店の人に聞いても、さあ・・・前からやってますねえ・・・と分からない模様。

で、勝手に考えてみたのですが、そもそもメンマは台湾の伝統食材で、タケノコを乳酸発酵させたものです。日本ではラーメンのトッピングですが、台湾ではラーメンには入れないとか。

丹野さんは、いったん乾燥塩漬けしたものを、水で戻して使っているそうです。

推察しまするに、要は、旨味の補強なのかなあと思います。

こんにゃくの成分は96-97パーセントが水分であり、あとは「コンニャクマンナン」と言われる糖類です。このマンナンは食物繊維とも言い、やたらと消化しにくいものなので、ダイエットに使われるわけですが、なにしろ、このように旨味の乏しい食品なので、醤油・砂糖で煮ると甘っ辛く成り過ぎてしまい、何か発酵食品で旨味を加えたくなったのだろうと思われます。

それにしても数ある発酵食品の中でメンマが何故良いのか・・・

味噌でも納豆でも酒粕でもないところが不可思議です。

繊維質にまた繊維質を加えるのが好き、すなわち丹野さんは繊維質フェチだったのか。

謎は深まるばかりです。

 

追伸

この催事について詳しくは、以下の通りです。

どうぞ、お立ち寄り下さい。

催事名:dancyuフェスティバル~dancyu×髙島屋グルメの祭典~

会期:平成27年10月14日(水曜日)~19日(月曜日)

会場:玉川髙島屋 6階催し会場

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて2.060日連続更新を達成しました。

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dancyu×髙島屋①

雑誌のdancyuさんにお声かけいただきまして、

「dancyu×髙島屋 グルメの祭典」という催事に出店させていただいております。会場は玉川髙島屋さんです。

dancyuさんの仕切りですから、個性のある御店さんばかりが出ていましたが、その中に旧知の人のお店があるのは嬉しいことでした。

まず豚肉加工品の「鹿児島ますや」さん。

「ますや」の米増さんは自然で安全であることを追求しておられて、曰く、

「黒豚100%、増量剤使っていません。」

「化学調味料、使っていません。」

「精製塩、使っていません。」

「発色剤、使っていません。」

「結着剤、使っていません。」

「防腐剤、使っていません。」

そして、

「人に優しい味です。」

今回は、その生ソーセージをいただきました。

生ですから、自分で茹でなければならず、そこは手間なのですが、食べると、そうそう、ソーセージって、そう言えばこういう味の物だったよね!と思いだします。

もう一軒は京の地豆腐「久住屋」さん。

「もてなし豆腐」という商品名でザルが付いています。

浅草へ持ち帰り、即いただきますと、豆の旨みがしっかり在るのが嬉しいですね。

食い終わってから、しまった!と思ったのですが、夜の酒肴にすれば良かったです。

旨みの在る豆腐は酒肴に成るが、旨みの無い豆腐は酒肴に成らない。それが私の豆腐の分類です。(笑い)

大変勉強になる催事です。

 

追伸

この催事について詳しくは、以下の通りです。

どうぞ、お立ち寄り下さい。

催事名:dancyuフェスティバル~dancyu×髙島屋グルメの祭典~

会期:平成27年10月14日(水曜日)~19日(月曜日)

会場:玉川髙島屋 6階催し会場

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて2.059日連続更新を達成しました。

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写真帳

浅草観音裏の老舗料亭「一直」(いちなお)のご主人江原さんに、昔の写真帳を見せていただきました。

江原さんは昭和9年のお生まれ。東京都料理業組合の副組合長もなさった料理業界の重鎮です。今は公職は退いておいでですが、元気にお店のカウンターに立っておいでです。

さて、写真帳には戦前の写真がたくさん収められていました。関東大震災後に再建された「一直」さんの建物は実に立派です。

この頃ホテルは未だ少なく結婚披露宴はたいてい料亭でやっていたとかで、それに応えて座敷は広大です。お庭も結構。芸者衆の、妙に盛り上げた髪型は「203高地」と言われていたそうです。あんまり笑えませんな。

戦時色が濃くなると軍人さんが登場します。小磯大将と言ったら総理大臣に成った人ですよね。この頃が日本の花柳界が一番盛大だった時代だと思います。

やがて戦争が長期化すると花柳界は「不要不急の仕事」と呼ばれるようになり、芸者衆は勤労動員に従事させられます。昭和20年3月10日を迎える以前から営業できない在り様だったようです。

そのような状況で早めに疎開したため人命は助かりましたが、店はもちろん丸焼け。

「浅草の花柳界を復興させるために、出てきてください」と、先に戻って営業を再開した料亭さんに呼び出される形で浅草に戻ったのは、昭和26年だったそうです。

この時江原さんのお爺さんは「これからは自分の納得できる仕事をしたい。それには30~40人くらいの客で充分だ」と、店の規模を縮小しました。

その店舗の写真もアルバムに在りましたが、戦前と比べてかなり小ぶりです。

それが結果的には幸いしました。

戦後花柳界が時流に合わないと言われ逆風に苦しむ中でも「一直」さんは堅実な道を歩んで来られました。

特に平成に入ってから、日本人の接待の習慣が批判に曝されるようになり、さらに政治資金の規制強化でかつての上客だった政治家が花柳界から消えてしまい、打撃を受けた店は少なくありませんが、「一直」さんが生き残って今も盛況なのは実に結構なことです。

写真帳、大変勉強になりました。

追伸

デパートの催事に出店して精肉の販売をさせていただきます。

どうぞ、お立ち寄り下さい。

催事名:dancyuフェスティバル~dancyu×髙島屋グルメの祭典~

会期:平成27年10月14日(水曜日)~19日(月曜日)

会場:玉川髙島屋 6階催し会場

 

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて2.058日連続更新を達成しました。

 

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歌った、踊った、喋った、泣いた、笑われた

「浅草演芸ホール」を運営する「東洋興業」の松倉久幸会長が書いた本『歌った、踊った、喋った、泣いた、笑われた』を読んでいます。

戦前は「三友館」と控えめな名前だった、浅草公園第六区の映画館が、戦後はお笑いとストリップ・ショウの「フランス座」になり、やがて寄席の「演芸ホール」へと変転しつつ今も繁盛しています。「鈴本演芸場」「新宿末廣亭」「池袋演芸場」とならぶ東京の落語定席の一つですね。

戦前から浅草に残っているのは、ここと「木馬館」の2館だけで、何故か名前が地味なのが共通項です。六区には他に「金龍館」「電気館」「帝国館」「大勝館」などと大層な名前の劇場がいくつも在りましたが、テレビ全盛の時代に消滅しました。

そう、テレビの時代=六区の暗黒時代に、興業浅草の灯を燈し続けて来たのが、松倉さん=「東洋興業」さんだったのです。

『歌った、踊った、』は、その「フランス座」時代を描いた本です。

戦後の芸能史に残るようなお笑いのスター達~渥美清、由利徹、三波伸介、伊東四朗、東八郎、萩本欽一、ビートたけし~を「フランス座」(東洋興業さん)が輩出しています。

彼らはストリップ・ショウの合間の時間に出演して芸を磨いていたのです。

清濁併せ飲む、そこがポイントだったのですね。実に面白い御本でした。

追伸

デパートの催事に出店して精肉の販売をさせていただきます。

どうぞ、お立ち寄り下さい。

催事名:dancyuフェスティバル~dancyu×髙島屋グルメの祭典~

会期:平成27年10月14日(水曜日)~19日(月曜日)

会場:玉川髙島屋 6階催し会場

 

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて2.057日連続更新を達成しました。

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