東京府第一大区

ご夫婦でふらりと見えて、二代目歌川国輝の「東京府下第一大区尾張街通煉化石造商法繁盛之図」という、開化絵がかかった個室をご利用になったお客様から、「この絵の題の、第一大区って何?」とご質問があったのですが、恥ずかしながら不勉強で、その場では即答できませんでした。

代わって、当サイト上でご回答申し上げます。ご予約無しで見えたので、ご芳名がわかりませんが、このサイトをご覧いただけていれば、幸いです。

  明治4年に新政府は、新しい地方制度を定め、各府県の下に大区を置き、大区の下に小区を置きました。例えば「第9大区6小区」などという具合に、数字で行政区域があらわされました。「東京府第一大区」というのは、それです。おおよそ、現在の東京都中央区に相当する地域でした。

 ところが、この制度は評判が悪く、7年間しか続かず、明治11年(1878年)には、新たに「郡区町村編成法」が制定されて、制度が変わってしまいました。年配の方ならご存じの、浅草区、下谷区、日本橋区、京橋区という区割りがそれです。この、明治11年時の区割りが本格的に再編されるのは、太平洋戦争後のことでして、約70年間に渡って使われました。日本橋区、京橋区という呼び方にはなじみがあるのに、「第一大区」にはなじみがないのは、そういうわけです。

 国輝の開化絵は、明治6年の絵ですので、明治4年の区割りである、「第一大区」という言葉を使っているわけです。また、尾張街というのは、銀座の尾張町のことです。

 どうです? 分かりやすかったでしょう!

 本日の解説は、カリスマ受け売り師として有名な、住吉史彦先生でした。ご精読ご苦労さんでした。

 *なお「東京府下第一大区尾張街通煉化石造商法繁盛之図」の画像はこちらで、ご覧いただけます。

Filed under: 今日のお客様,困った質問,憧れの明治時代 — F.Sumiyoshi 11:35 AM  Comments (0)

饗応・居留地・牛鍋

 台東区芸術文化財団の、M氏とK嬢が見えました。台東区アートアドバイザーの同僚として旧知の、平野真敏さん (ヴィオラ・アルタ奏者)の、コンサートの打合せのためです。

 7月3日に開催される、そのコンサートの座興で、平野さんから私に、「音楽のあい間に何か、お客さんのためになる話しをしてもらえませんか?」とご依頼があり、「まいったなー」と思いつつ、お引き受けしました。そのご依頼があったのは、去年のことでして、話す内容は時間をかけて考えていけばいいや、とのんびりしていましたが、そろそろチラシを作るとかで、本格的に話しの構想を練らないといけません。15分の講演ですが、15分というのは、やってみると、結構長いですよね。

 で、今のところ、どういうことを話そうと思っているか、ですが、日本の近代の食生活の、起源の話しをしようかと思っています。コンサートの会場が、上野公園の中の、旧東京音楽学校奏楽堂なのですが、この建物は、重文にも指定されている、歴史的建物ですので、そういう話しで行ってみようかな、と思っています。

  タイトルは「饗応・居留地・牛鍋」です。きょ=きょ=ぎゅう で覚えやすいでしょう。平野さんのヴィオラを聞きに見えた方を相手に、飲食の専門的な、細かい話しは野暮です。覚えやすい、ウンチクをご提供することに徹しようかと思っています。

  そうそう。ジョークも用意しないといけません。「わたくし、市川海老蔵でございます!」は、このサイトでばらしてしまったので、もう、使えないなあ。どうしよう。

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございます。浅草「ちんや」六代目、住吉史彦でした。

平野真敏さん (ヴィオラ・アルタ奏者)については、こちらです。

Filed under: 今日のお客様,憧れの明治時代,食育ナウ — F.Sumiyoshi 3:16 PM  Comments (0)

浅草とエンコ

先週のことですが、スタジオdpの、U社長が芦屋から上京して見えました。U社長は、このブログや、「すきや連」のサイトを担当してくれている方です。また、「すきや連」の事務的なこともお手伝いいただけるので、私としては頼りにしています。

 打合せに使った部屋には、楊洲周延の「浅草公園遊覧之図」という開化絵がかけられていました。今は埋め立てられて無くなってしまった浅草の、「ひょうたん池」のほとりに茶店が立ち並び、着物に洋傘をさした美女が遊んでいる画です。背景には、当時「十二階」の通称で知られ、東京一の展望台だった、「凌雲閣」がそびえています。「凌雲閣」は、今ならさしずめ、東京スカイツリーのような存在で、随一の観光名所だったそうです。

 Uさんは、その画に興味を持たれたようで、「浅草公園ってどこですか?」というご質問。はい、では答えですが、明治6年に浅草寺の境内の相当部分と周辺が、「公園」に指定されたのです。現在の本堂・五重塔・伝法院だけではなくて、仲見世も、「花やしき」近辺も、「浅草演芸ホール」近辺も含む広大な敷地でした。

  Uさんは関西の方なので、ご存じないかもしれませんが、その昔、浅草のことを隠語で「エンコ」と言ったでしょう?「公園」をひっくり返して「エンコ」。「浅草へ遊びに行こう」と言うところを「エンコ行こうよ」と言ったわけです。

 周延の画に描かれた当時の様子なら、風情があって、たしかに「公園」という感じがするのですが、その後「凌雲閣」は関東大震災で倒れ、また「ひょうたん池」は埋め立てられてしまい、現在は、「浅草公園町会」という町会の名前に、その名残を留めています。自然と「エンコ行こうよ」とは言わなくなりました。

 と、いう話しをUさんにしたら、「その話し、絶対ブログに書くべきですよ!個人的に会話してるだけじゃ、もったいないですよ!」とおっしゃるので、書いてみました。

  なお、「ちんや」の所蔵している開化絵は、こちらでご覧いただけるのですが、今日書いた、「浅草公園遊覧之図」は新しく、手に入れたので、まだUPしておりません。悪しからず。是非、見に来て下さい。

  「え?意地悪してるんだろう?わざとUPしないんだな。住吉の性格悪いのは知っているぞ!」

⇒濡れ衣です!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございます。浅草「ちんや」六代目、住吉史彦でした。

 *「スタジオdp」さんのホームページは、こちらです。 

*Uさんが作った、「すきや連」のホームページは、こちらです。