コロナで浅草が危機だ!
ということで有志の若い方が浅草の魅力をネットなどで発信してくれようとしています。そういう方の中には私の所へ取材に見える方もいます。ありたいことです。
そんなタイミングで池袋暴走事故の裁判が始まりました。
あの事故ではドライバーが元高級官僚で「上級国民」であることがポイントになってしまい、「上級VS下級」の構図が作られようとしています。不幸なことですね。
が、上級と下級が接することは、対立だけを産み出すのではなく、面白いものを産み出すこともあります。それが浅草だと私は思っています。典型的には永井荷風や高見順の文学作品が挙げられます。
思い起こしますと、太古の時代東京湾の海岸線は今よりずっと手前にあり、浅草辺りが隅田川の河口でした。そこに水運の拠点ができ、お寺も建立されました。江戸が未だない時の話しです。
太田道灌が江戸城を築城したのは15世紀のことでしたが、この時点でもまだ江戸と浅草は別の町だったと思われます。
江戸が大きく変わったのは、家康が入って来たからです。家康が秀吉から江戸を与えられた時点でも、江戸城のすぐ先には入江や湿地帯があったと言いますが、家康は天下を獲ると、首都・江戸の建設に邁進します。
で、やがて浅草は膨張してきた江戸に吸収されるわけです。元々江戸にはあんまり関わりがなかったのに、急に日本の首都の一部・「首都の端っこ」に成ってしまったわけです。これが浅草の運命であり特徴です。
隅田川は水運の動脈だったので、その岸に米蔵が建設されました。浅草と江戸の間の蔵前の辺りです。米は武士の給料でしたから、経済を扱う一大拠点が浅草の、すぐ南に来たのです。
要するに、浅草の人達の主体性とはあんまり関係なく、浅草は政治権力や経済力の中枢の、すぐ隣になってしまい、影響されるようになったのです。
浅草北方に吉原遊郭や歌舞伎座が移転してきたのも江戸幕府の政策の結果です。
明治時代に浅草六区が歓楽街になったのも政府の政策の結果です。明治政府は徳川方だった浅草寺の土地を強引に取り上げて、それを民間人に貸し、地代を財政の足しにしました。明治・大正・昭和の浅草全盛時代に、浅草の中でも特に賑やかだったのは六区ですが、その土地は、そのように開発されたのです。
このように、浅草は江戸の政治権力・経済力のすぐ傍に在ったので、歴史上常に権力サイドに左右されてきました。
そして権力サイド(「上級国民」)の中の酔狂な人が浅草へ入り込んできて、面白いことをしてくれました。
上級側には文化があるが、バイタリティーがない
下級側には文化はないが、バイタリティーがある
先に例として挙げた荷風や高見順の親は内務官僚でした。二人とも高学歴でしたが、官界からはスピンアウト。六区の踊り子のバイタリティーに惹きつけられて通って来ました。
川端康成も大の浅草ファンだった時期があり、「浅草紅団」という作品があります。(その後偉くなり過ぎて、浅草所縁というイメージではなくなりましたが)
戦後日本のバイタリティーを体現する人物と言えば松竹映画「寅さん」ですが、その寅さんこと渥美清は浅草芸人でした。そして寅さんが恋に落ちる「マドンナ」は、しばしば上級側の娘でした。学者志望の大学院生、画学生、殿様の末裔の娘・・・二人がデートする喫茶店にはクラシック音楽が流れていたります。
さてさて、浅草はこれからどういう町になって行くでしょうが。
「いかにもインバウンド狙い」の町にして良いわけもありませんが、別の方向が見えて来ているわけでもなく、試行錯誤が続きましょう。
追伸
「和牛」のお二人とdancyu植野編集長のテレビ番組に出演させていただきます。
『和牛の町×ごはん』BS日テレ 10月13日(火曜)21時~
本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。
弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし本日は3.879目の投稿でした。引き続きご愛読を。